さらに注目すべきは、秀吉の家系や父母に関する記録の曖昧さである。弥右衛門の出自や具体的な職業についての確定的な情報は乏しい。
比較的早期に成立した『太閤素生記』や、竹中重門の著作『豊鑑』にしても、秀吉の死後約30年以上を経て成立した編纂史料であり、全面的に信頼することはできないからである。
江戸時代に天野信景が著した随筆『塩尻』に収録されている「秀吉系図」には、秀吉の祖先の国吉が近江国の還俗僧(編集部注/一度出家したものの、再び俗人に戻った人)であったとの記述もあり、秀吉が尾張の農村社会に根ざした存在ではなかった可能性を示唆する。
江戸時代の『尾張群書系図部集』も、弥右衛門の先祖を近江国浅井郡草野郷(現在の滋賀県長浜市草野町)出身の還俗僧と記す。
また『太閤素生記』によれば、秀吉の母は尾張の「ゴキソ村」の出身であるという。「ゴキソ村」とは現在の愛知県名古屋市昭和区御器所町のことで、地名から木地師(ろくろを使って木工品をつくる職人)がかつて集住していた地域と考えられる。
このように、秀吉の家系はもともと農業に従事しない層であり、秀吉自身も農村とは異なる生活環境で育った、という可能性が指摘される。
三木の干殺しや鳥取の渇え殺しは
技術者出身だからこそ生まれた発想!?
秀吉の母である「なか」が再婚した相手である筑阿弥についても、前述のように織田家の同朋衆であったとされ、ここからも秀吉の実家が農業以外の職業に関わりを持っていたことが推測される。
同朋衆は茶の湯やお伽噺などの芸能で主君に奉仕する存在であり、農民とは異なる社会的地位を有していた。このような特殊な環境で育ったことが、秀吉の多様な経験と人並外れた才覚を育む要因となった可能性がある。
少年・青年時代の秀吉が、行商人や技術者として生計を立てたという伝承も、非農業民説を補強する材料である。
『太閤素生記』によれば、16歳の時に清須で木綿針を商いながら旅をしていたとされる。







