彼が帰った後、父(編集部注/小野英輔。日本興業銀行第4代総裁・小野英二郎の三男。横浜正金銀行サンフランシスコ支店副頭取、東京銀行常務などを歴任)は激しい口調で、貧しいピアニストなど夫にするのは最も望ましくない、と息巻いた。
父はピアニスト志望だった自分が義理の父(編集部注/安田善三郎。安田財閥の二代目総帥・善次郎の娘婿)から言われた全く同じ言葉で一柳との交際を禁止させようとした。母(編集部注/前記善次郎の二女・暉子)もさらに声を上げた。
口論は果てることなく、洋子はついに荷物をまとめて家を出た。1955年、22歳、洋子は名門として背負ってきた富も名声も家柄もすべて捨てた。大学を中退、駆け落ちして、貧しい芸術家と一緒になり彼らの仲間入りをして芸術に打ち込む生活を始めた。孤独と束縛から逃れ、ついに自由に羽ばたこうとした一歩だった。
ヨーコとジョン・レノンの出会いは
本当に偶然だったのか?
それから11年後にヨーコはジョン・レノンと出会うことになる。その運命的な出会いについては、偶然が2人を引き合わせたという定説が語り継がれてきた。
「ジョンがインディカ画廊を訪ねたのは、ほんの偶然だった」と数多くの本や記事に書かれているが、実際にはヨーコは彼が来るように仕組んでいたという説もある。
『オノ・ヨーコ』を書いたジェリー・ホプキンズによると、ヨーコは個展の準備を始める前から、インディカ画廊の経営者ジョン・ダンバーに、あなたのソングライター仲間であるレノンとマッカートニーは来るのか、と訊いていた。画廊で特別なイヴェントを開くときにはいつも彼らを招待するとダンバーが言っていたからだった。
ヨーコは数回、ジョンの名前をあげてしつこく念を押した。ダンバーもとうとう根負けし、ジョンに電話して「バッグ・ピース」(編集部注/大きな布の袋のなかにすっぽり入るという、ヨーコが発想した観客参加型のイベント。ヨーコ自身が客と2人で中に入って服を脱ぐこともあった)のことを話した。ヨーコ・オノという芸術家が友達と一緒に袋のなかへもぐりこんで、ときにはファックすることもあるのだ、と説明するとジョンは、そいつは面白そうだと答えた。
トリップしていたジョンは
ヨーコの芸術に目を奪われた
ジョンは「未完成の絵とオブジェ」という展覧会のプライベート・オープニングへ出かけてみることにした。友人のテリー・ドーランと一緒に画廊に足を踏み入れた時にはマリファナとLSDで3日間寝ていない酷い状態だった。







