集団に溶け込んで、匿名性を獲得したいという気持ちはわかるんですよ。頭数の多い集団に属していると楽ですから。どんな非論理的な、でたらめなことを言っても、自分の「同族」の誰かが、そのエビデンスを示してくれたり、理路整然と論証してくれることを当てにできるから。自分がやらなくても、誰かがやってくれるだろうと思える。だから、多数派に属している人間はどんどん言葉づかいが粗雑になるんです。

 テレビのコメンテーターで暴論を吐く人たちは「オレのバックには、同じ意見の人間が何十万、何百万もいる」と信じているからあんな言葉づかいができるんです。養老先生や僕のような「こんな変なことを言うのは自分しかいないだろうな」と思っている少数派の人間は、誰かが自分の言いたいことを代わって言ってくれるということをまず当てにできない。だから、「情理を尽くして語る」しかない。道行く人の袖を掴んで、「ちょっと僕の話を聞いてくれませんか」とお願いするしかない。だから、どうしても話がくどく、長くなる(笑)。

一度でも論破をすると
死ぬまで正しくないといけない

養老:調べ物でも何でもスマホに頼って、他人と同じ結果を得て満足するのと、同じ構図でしょう。楽なほうが気持ちよくて面倒くさいのは嫌だという、単純化の方向へ流れているんです。

『日本人が立ち返る場所』書影日本人が立ち返る場所』(養老孟司、内田 樹、KADOKAWA)

内田:「論破」ということをありがたがる風潮もよくないですね。だって、相手をうっかり論破してしまったりすると、その成功体験が後々災厄をもたらすじゃないですか。後になって自分が言ったことが間違っていたとわかっても、論争相手に屈辱感や不快感を与えたという事実は変えられない。今さら謝っても仕方がない。となると、論破した人は「私は一度も間違ったことを言っていない」という無謬性にしがみつくようになる。論破したら、その成功体験が手放せなくなる。

 そして、同じロジック、同じレトリックで、いつまでも論敵を「論破」し続けることになる。成功体験に釘付けにされる。それは自分で成長を止めることです。自分自身に向けて「変化するな、成長するな」という呪いをかけ続けることです。