不良も、盛り場も、終わっていく存在

開沼 「新たな文化の興行師」のような意識を持っている人は、お堅いニュースをつくっている人や文芸編集者、週刊誌記者、広告代理店の社員まで、自分自身も含めて、メディアに関わる人の中には様々なレベルでいるわけですよね。もちろん、やり過ぎると、ネット上の言説でしばしばあるような「マスゴミの陰謀」「たいして流行ってもいないのに、流行っているかのように演出している」という受け取られ方をして、逆効果にもなるわけですが。

 文化の活性化のためには、すでに客が集まっている場所に群がる、勝ち馬に乗るような「中心の批評」だけではなく、まったく注目を浴びてないし、評価もされていないものを「ここにとんでもないものがあるぞ」と騒ぎながら、周縁から中心に持ってくるような「周縁の批評」も常に必要だと思います。これは文化に限らず、政治も経済も社会も、どんな批評でもそういった役割をする人が重要なのかもしれません。

 ただ、いまはどの分野でも「周縁の批評」の力が衰えている傾向があるようにも感じます。つまり、「わかりやすい流行りモノ」があれば、そこに乗って安住してしまう。メディアにもう少し余裕があるときは周縁から持ってくることができたのかもしれないけど、いまは勝ち馬に集中するしかない背景があるのかもしれませんし、世代の雰囲気もあるのかもしれません。

 批評家にせよ学者にせよ、年配者には、お気軽な権力批判や規制・秩序の見下しではなく、より本質的な意味での批評を担おうとする人も多いようにも見えます。このように文化を活性化するためのループをどうつくっていくのか、その点に自覚的だった磯部さんにとって、いまの状況はどう見えてますか?

磯部 音楽批評が面白くなくなった背景には、いろいろと複合的な要因があると思いますが、音楽メディアが従来の価値観と手法を引きずって、新しい書き手を発掘していないがために、あたかも停滞して見える、というのも大きいでしょう。

 ただ、90年代生まれのアーティストが、インターネットを通して台頭してきたのと同じように、ブログやSNSに目を向ければ、若くて面白い書き手もでてきています。そうした意味では、僕は世代交代のちょうど狭間にいる古い書き手だと思っていて。それには自覚的ですね。

開沼 なるほど。

磯部 開沼さんとはじめてお会いしたとき、「原発立地地域と並行して、歌舞伎町のフィールドワークをやっているのでそれをまとめたい」と仰っていましたよね。それが、『漂白される社会』につながっていったわけですが、あの時、「なぜ原発と歌舞伎町なんですか?」と訊いたら、「どちらも終わっていくものだから」という答えが返ってきたのが印象的で。

 ひょっとしたら自分も、不良的なものや盛り場的なもののように、終わっていくものについて書いてきた人間なのかなと思います。だからこそ、風営法の問題に行き着くのかなって。

最近でも、六本木の有名クラブVANITY摘発が大きな話題を呼んだクラブ規制の問題。第2回は、取り締まる側と取り締まられる側双方の視点から、踊ってはいけない国の現在に迫る。次回更新は、7月16日(火)を予定。


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