ところで、松倉重政ははじめのうちは比較的、キリシタンに寛容だった。が、1625(寛永2)年、将軍家光からキリシタン取締りの手ぬるさを叱責されると、態度を一変させてキリシタンを徹底的に弾圧するようになった。領内にはキリシタンが多く、それゆえこうした弾圧に対する不満も、島原の乱の背景にあった。
乱の直接のきっかけは、口ノ津の農民、与3右衛門の妊娠中の妻が、年貢米の未納のかたに捕らえられ、水牢に入れられて1週間後に死んだことだった。このむごいやり方に激怒した農民たちはついに蜂起し、代官の林兵左衛門を殺害したのである。
かくして島原の乱が勃発する。
これに改易された有馬・小西氏など旧領の浪人たちが加わり、彼らが農民たちを扇動して乱を拡大していった。海をへだてた唐津(からつ)藩の天草でも、これに呼応して農民たちが蜂起、富岡城の城代三宅藤兵衛(みやけとうべえ)を殺害し、島原半島に渡って島原の一揆勢と合流した。
天草一揆の総大将は、なんと14歳の少年だった。名を天草四郎時貞(ときさだ)という。この少年を盟主に、やがて一揆勢力は、島原半島の廃城であった原城に籠城した。総勢3万7000人。
乱の発生を知った幕府は、上使として板倉重昌(しげまさ)を派遣した。重昌は佐賀、久留米(くるめ)、柳河(やながわ)、肥後などの諸大名を動員して、原城を包囲した。参陣した大名は全部で17家(253万石)、12万人以上に及ぶ大勢力だった。
乱をきっかけにキリシタン禁教と鎖国政策へ
幕府は、この反乱は簡単に鎮圧できるだろうとタカをくくっていた。だが、当初の予測と違って、一揆勢力の抵抗は激しかった。幕府軍は何度も城攻めしたが、反撃をくらってそのつど敗退してしまっていた。
そんななか、2人目の上使として老中松平信綱(まつだいらのぶつな)が派遣されることが決まった。信綱は戦後処理を任務としていた。だが彼が大坂に着いてもなお、乱は鎮圧されていなかった。新たな上使の派遣にあせった板倉重昌は、信綱到着前に一気に決着をつけようとするが、味方の諸大名が乗り気でなく、それぞれがばらばらな戦いをする。







