ペリー提督の銅像Photo:PIXTA

歴史の教科書で長らく事実とされてきた出来事も、時代を経るうちに塗り替えられることがある。我々が「鎖国」に抱くイメージと実際の江戸庶民らの心持ちは違ったようだ。新たな見地から初の日米交流の裏舞台に迫った。本稿は、浮世博史『くつがえされた幕末維新史』(さくら舎)の一部を抜粋・編集したものです。

「黒船ペリー」ではなかった初の日米交流
船に積んでいたのは「ラッコの毛皮」?

 日本に最初に来航したアメリカ人は誰ですか?

 という問いをすると、1853年に浦賀(現在の神奈川県横須賀市)沖に来航したペリーと答える人も多いと思います。

 高校生くらいになると、1837年に同じく浦賀沖に来航し、漂流民を届け、通交を求めようとしたモリソン号と答える生徒もいるでしょう。

 ちなみにモリソン号の船長はデアード・インガソルという人物で、浦賀で幕府の浦賀奉行から砲撃を受け退去、さらに現在の三重県の鳥羽まで向かいますが悪天候に見舞われ来航を断念、さらに薩摩の山川に来航して交渉するも薩摩藩からも砲撃を受けることになりました。

 では、最初に来航したアメリカ人は、このデアード・インガソル船長ということになるのでしょうか?

 実はペリー来航より遡ること62年も前、日本にやって来た人物がいました。それがレディ・ワシントン号の船長ジョン・ケンドリックです。

 彼は、レディ・ワシントン号とグレイス号の2隻を率いて現在の和歌山県串本に来航し、ラッコの毛皮を売ろうとしました。

 結局交易は成立しませんでしたが、これが記録に残る最初のアメリカ人と日本人の接触ということになります。2016年にはグレイス号の航海日誌も発見され、さらに詳細が明らかになり、寄港地が現在の雷公の浜であることもわかりました。

 最初の日米交流を記念して串本町には日米修交記念館も建てられています。

実は出島から自由に外出できた?
江戸っ子と交流したオランダ人も

 そもそも「鎖国」を説明する教科書の中で、「オランダ人は長崎の出島だけで貿易を許されていた」という表記がなされているため、外国人は長崎の出島に閉じ込められて、そこでのみ交易をおこない、出島の外に出ることが許されていなかった、と思い込んでいませんか?

 外国人も手続きを踏めば長崎の外へ出ることが許されており(「長崎くんち」の見学を許されており)、実際、出島を出たオランダ人たちは大坂、京都などを訪れています。

 これは12月にオランダ人の長崎商館長(「カピタン」と呼ばれていた)が4年に1度商館員を引き連れ、江戸の将軍に謁見するために出かけたときのことでした。