仕方なく重昌は、自分が討ち死にすることで面目を保とうと決意したのか、強引に敵陣へ乗り込んで壮絶な死を遂げたのだった。

 重昌に代わって指揮をとることになった松平信綱は、平戸のオランダ商館長クーケバッケルに協力を要請した。

 クーケバッケルは、しぶしぶこれを承諾し、オランダ軍艦デ・リップ号に海から原城へ砲撃をおこなわせた。さらに船の大砲を陸揚げし、陸にすえつけて城内へ向け砲弾を撃ち込んだ。

 信綱は、翌年総攻撃をしかけて、ついに落城に持ち込んだ。幕府軍からは死者1640人、負傷者9297人が出た。城内では多くの一揆勢力の者が自害し、戦闘後の処刑によって殺された者も含めれば、2万人とも、3万7000人ともいわれる犠牲が出た。

 乱の後、島原藩主・松倉勝家は責任を問われ、所領没収のうえ斬罪に処せられた。

 また、天草周辺のキリスト教徒は根絶され、わずかに残された信者たちは隠れキリシタンとなって、その信仰を奥深くしまいこんだ。ちなみに、松平信綱は、「日本の内戦に外国の協力を求めたのは日本の恥辱」と細川忠利(ただとし)らに強く非難されたという。

 ところで幕府は、島原の乱をきっかけに禁教令を強化してキリスト教を徹底的に弾圧、ポルトガル船を来航禁止にするなど、鎖国政策を推し進めていくようになった。島原の乱の主役はあくまでも農民たちであり、その性格は農民一揆といえたが、江戸幕府はこれをキリシタン一揆と断定することで、思想統制に利用しようとしたのだ。

他国を尻目にオランダが貿易を独占

 幕府が鎖国に踏み切ったのは、幕府の御用学者(朱子学者)のキリスト教に対する反発も影響したといわれる。

 おもしろいのは、オランダが幕府に対して「カトリック国であるスペイン、ポルトガルは、日本にキリスト教を広めて乗っ取ろうとしている」と吹き込んだことが鎖国を決意させたという説だろう。

 実際、オランダは幕府に対して、「私たちは、キリスト教を日本に持ち込もうなどと思っていない。貿易ができればそれでいい」としきりに売りこんでおり、オランダ商館長が島原の乱の際、幕府の協力要請を承諾したのは、幕府に恩を売って貿易の確保をめざすためだったともいわれる。