第1の悪事:主君・三好義興を毒殺した?
1つ目の悪事は、久秀が主君の三好義興を毒殺したという説です。
義興は、畿内を支配して「三好政権」と呼ばれる勢力を築いた三好長慶の嫡男でした。長慶は松永久秀の才能を高く評価し、久秀を重用した人物です。
永禄2年(1559)※、長慶は家督を義興に譲りました。しかしそのわずか3年後、義興は22歳で急死してしまいます。さらに翌年、父の長慶も亡くなり、三好家は急速に動揺しました。こうした状況から、「久秀が権力を握るため、義興を毒殺したのではないか」という説が、江戸時代に広まりました。
※永禄3年(1560年)とする史料もあり、諸説あります。
しかし、一次史料を見ると、この説はかなり疑わしいものです。久秀が三好三人衆の1人である岩成友通に宛てた書状では、義興の病状を非常に心配する様子が記されており、堺の名医として知られる半井驢庵が診察している間、久秀は「不憫で見ていられない」とまで書いているのです。
ほかにも、奈良の興福寺僧侶の日記『多聞院日記』には、久秀が医師を呼び寄せて義興の治療を依頼したことが記録されています。仮に毒殺を企てていたのであれば、このような行動は不自然です。
さらに、義興の死後も、久秀は長慶の養子となった三好義継を支え続けています。権力奪取が目的であれば、ここまで三好家を支える必要はなかったはずです。
一次史料から見る限り、「主殺し」という評価は根拠に乏しいといえます。
第2の悪事:将軍を暗殺した黒幕だった?
第2の悪事は、永禄8年(1565)に起こった将軍暗殺事件、いわゆる「永禄の変」です。この事件で、室町幕府13代将軍・足利義輝が殺害されました。
将軍殺害の実行犯として知られるのは、三好長逸や久秀の子である松永久通です。そのため「背後で久秀が操っていた」という疑いが、古くから持たれていました。
しかしこの頃の久秀は、すでに家督を久通に譲り、政治の表舞台から退いていました。実際に政治文書の発給も久通名義で行われており、久秀が直接政務を指揮していた形跡はありません。また、事件当日、久秀は本拠地の大和におり、京都の政変に関与できる状況ではありませんでした。
さらに注目すべきは、久通が義輝の弟で将軍候補であった周暠(しゅうこう)を殺害したのに対し、もう1人の弟である覚慶(のちの足利義昭)の命は、久秀が守ったと伝えられる点です。
この点からも、久秀が積極的に将軍家を滅ぼそうとしていたとは考えにくいのです。







