SNSは人格の成長ではなく固定を高評価する
SNSは、誰もが最小の労力で特定個人の過去発言を掘り当てられる環境を用意した。言い換えるなら、誰かの発言の「一貫性」を厳しくチェックできるようになった。
「一貫性」とは、裁判の基本原則でもある。裁判では「証言の矛盾」や「過去との不整合」が個人の信用を崩す最強の証拠となるからだ。その意味で、SNSが加速させたキャンセルカルチャーは裁判にそっくり、とも言える。
ただ、実際の裁判において証言や証拠を集めるのは、それを専門とするプロの法律家たちだ。一方、SNSでは特に職能のない無数の人民たちがそれを行う。罪の軽重を判断する明確な基準もない。あっても参照しない。空気やノリ、あるいはきわめて群集心理的な道徳的高揚によって、断罪が決行される。炎上が「小学生のつるし上げ学級会」と言われるゆえんだ。
稲田豊史『本を読めなくなった人たち~コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)
SNSとは、証拠(ログ)を用いて群衆(観客)が即時に判決を下す、非常に前近代的な道徳裁判システムである。公の場で証言が集められ、一方的に評価が下される。まるで中世~近世ヨーロッパにおける広場での公開処刑や魔女裁判だ。
時代が、とてつもなく逆行している気がしてならない。
インターネットは人類の能力を拡張し、文明を進化させるツールとして誕生した……はずだ。しかし、そこから生まれたSNSは、人格の成長ではなく、人格の固定をむしろ高評価する社会を作った。
もはやインターネットは人類の進化を阻んでいるとしか思えない。いい大人が、幼稚な学級会や前近代的な魔女裁判に加担してしまうわけだ。「幼稚」と「前近代」、どちらも「退化」の類義語であろう。







