「私が一番恐れたのは船を撃沈されやしないかということ」

 さらに、強大なイギリス海軍の軍事封鎖を突破して船を出すにあたり、最大の懸念は乗組員の命であった。

《あのときだってまず私が一番恐れたのは船を撃沈されやしないかということだった。これは船はいいとしても人命に関することだからである》(同記事)

 しかし、出光氏は単に自社が困っていたからイランの石油に飛びついたわけではない。国際的なルールと正義について、出光氏は極めて冷静かつ慎重に状況を判断していた。

《モサデグという人は民族独立の旗印を掲げて立った人で好感が持たれた。ところが私としても国際信義は守らなければならないので、そうむやみに買付をやることはできない。「どうかイラン石油を買ってくれ」というモサデグの心持ちはよく分るけれど、日本人として国際信義を無視するようなことをしてはいかんということは、はっきり心内に言いきかせていたので一年半は隠忍していた》(同連載・「出光佐三 私の履歴書(10)イランから輸入」)

 出光はイランへの同情だけで動いたわけではなく、「国際信義」を重んじ、1年半もの間耐え忍んだ。そして、イギリスやアメリカが共同販売会社を作ってイランの石油を買おうとする動きを見せた時、「米国、英国が買いにいくなら私が買いにいってもいいだろう」と確信し、ついにタンカー・日章丸を極秘裏に派遣したのである。

 1953年4月10日、日章丸がイランのアバダン港に到着すると、数千人のイラン市民が熱狂的に歓迎した。世界中が敵に回る中、日本だけが実力で助けに来てくれたからであろう。

 この極秘航海を指揮した船長や乗組員たちもまた、撃沈の恐怖と戦いながら、苦境にあるイランの人々のために命を懸けた。

 敗戦からまだ日も浅く、国際社会の中で自信を失っていた当時の日本国民にとって、大英帝国と巨大カルテルに堂々と立ち向かう日章丸の姿は、どれほど大きな希望と勇気を与えたことだろうか。

 日章丸は石油を満載して死地を突破し、5月9日に無事川崎港へ帰港した。しかし、激怒したイギリス側は「その石油はドロボウ品だ」と難癖をつけ、東京地方裁判所に差し押さえを求めて提訴した。