たとえば、「怒りを表に表わす」という悪い行為について考えてみましょう。仏教にはいかにして憎い対象が心に現われるのか、いかにして心が反応するのか、怒りの本質は何か、というような「怒り」というものを見極めるための修行があります。/この修行においては心に怒りを生じさせ、それからその怒りを観察します。しかし、この修行は外側に怒りを発散し、誰かと争うということを意味してはいません。もし怒りに満ちた態度を外に表わしそうになったならば、あなたは心のドアを閉めて、あなた自身の内部にとじこもり、そこで怒りを生じさせ、それを研究してみるのがよいでしょう。
(ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャムツォ『ダライ・ラマの仏教入門――心は死を超えて存続する』、石浜裕美子(訳)、光文社、2000年:P112)
(ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャムツォ『ダライ・ラマの仏教入門――心は死を超えて存続する』、石浜裕美子(訳)、光文社、2000年:P112)
失望を感じたとき
怒りを現すか否か
怒りを観察し、研究することで、冷静さを取りもどし、怒りを管理できるようになる。多くの人がこの心構えから学びを得られるだろう。テンジン・ギャツォは怒りを見せてはいけないとは言わないが、怒りを表面化することによって、かえって状況が悪化することを冷静に見定めている。
ある種の心の問題――失望、なんらかの精神的危機――にとっては、それらを口に出して外に表わすことが良いこともあります。外に出すことは内部に溜まっていた不快な感情を減少させます。/しかし、別の種類の精神的危機、たとえば、怒り、あるいは執着などの煩悩は、あなたがそれを外に表わせば表わすほど、それは昂進していきます。この種の感情は抑制するほうがより有効な処置となります。[……]特定の状況のもとでは怒りを表に出すことも許されると思いますが、その場合でも決して他人を害してはなりません。賢い両親は手をあげないで子供を諌めるものです。
(同:P112-P113)
(同:P112-P113)
宗教的虐待を受け、体罰によって打ちのめされていた私としては、賢い親は子どもに手をあげないで諌めるものだ、というまっとうな指摘に非常に勇気づけられる。体罰の問題が広く知られるようになった現在でも、子どもに対してついつい手をあげてしまいたくなる親はたくさんいるのだと思う。怒りを表すことで、かえって自身の怒りは煽られるというダライ・ラマの指摘を心に響かせていきたい。
『やっぱり人生を支えてくれる宗教の言葉 二〇〇〇年の叡智から私が学んできたこと』(横道 誠、光文社新書)







