こうした分類の仕方は、宗教学の世界で広く用いられているものだが、私は、神道については「ない宗教」としてとらえられるのではないかと考えている。その方が、神道の性格をより正しく理解できるように思えるからである。
神道は意外に説明するのが難しく、果たして宗教なのかどうかからして問題になるのだが、「ない宗教」という形でとらえると、とたんに見通しがよくなってくる。
神道の場合、誰か特定の創唱者がいるわけではない。後には、仏教の影響を受けて、様々な神道の流派が生まれ、そこでは創唱者にあたる人物も現れる。だが、神道全体に特定の創唱者はいない。
創唱者がいないということは、教えがないということである。「神道の教えは何だろうか」と考えたとき、私たちが、その具体的な内容を思い起こすことができないのも、それが関係する。
神道には聖典もなければ
創唱者も聖職者もいない
教えがなければ、それを記した聖典も生まれようがない。仏教には仏典、キリスト教には聖書、そしてイスラム教にはコーランがあるが、神道にはそれに相当するものがないのだ。
そうしたこととも関連するが、神道には聖職者にあたるような人物もいない。現在では神主と呼ばれる人たちがいて、彼らは神社で祭祀を行っており、それを専門としている。
けれども、歴史を遡ってみるとプロの神主は存在しなかった。いたとしてもその数は少なく、役割もさほど重要ではなかった。仏教と一体化していた時代には、僧侶が神社を管理運営していた。
その点は、天皇家が営む「皇室祭祀」のことを考えればいいだろう。神を祀る役割を果たすのは天皇であり、天皇は専門の神主というわけではない。村で行われる神社の祭祀でも、昔は村人が当番制であたるのが一般的だった。現在でも、そうした伝統が守られている地域はいくらでもある。
宗教の本質として救いを与える、救済の手段を提供するということが言われることは多い。だが、神道には、救いの手立てもない。人々は神に対して祈願はするものの、それが救済に結びつくとは考えられていない。
このように、神道の本質は「ない宗教」ということにある。







