競馬倶楽部の幹部はこの鉄道が移転成功の絶対条件と位置付け、鉄道省に強く働きかけた。その結果、1933(昭和8)年秋の開場には間に合わなかったものの、翌年4月2日、春季競馬の開幕とともに新線と東京競馬場前駅が開業する。
東京競馬倶楽部が鉄道アクセスを重視していたことは、『日本競馬史・第三巻』の「第一編・東京競馬場」の項にも書かれている。競馬場西側に南武鉄道の府中本町駅があり、それに加えて新駅の設置が見込まれるのなら、スタンドはそちら側に建てるのが理想的。そこからコースを左回りにするという結論が導き出されたのではないか? “鉄道起因説”も十分にあり得ると思う。
工事着工前に井田一族と
「お墓問題」で揉める
それやこれやを考えつつ、東京競馬場開場当時のコース図を眺めていたら、ハッと息を呑んでしまった。「コースを左回りにしないと大変なことになるかもしれない!」と思ったのだ。
東京競馬場名物の1つが、3、4コーナー内側の“大ケヤキ”(実はケヤキではなく榎なのだが)。その下には井田一族の墓があり、“大ケヤキ”は井田家ゆかりのご神木とされている。井田一族のうち最も有名なのが、1600年頃に(安土桃山時代から江戸時代にかけて)この地を開拓し、村の礎を築いた井田是政。今もなお、この付近の地名や西武多摩川線の駅名にその名を残す人物だ。
東京競馬場を建設するにあたり、この墓をどうするかが大問題になった。『府中市史』には、問題解決へ向けての経緯が記されている。要約すると、まず1929(昭和4)年10月、墓地を東京府(当時)指定の史蹟として永久保存し、井田家による墓参は競馬倶楽部の事業に差支えない限りいつでも自由にできるとの覚書が、競馬倶楽部と井田家との間で取り交わされた。つまり、墓地は競馬場内に永久に残すことになったわけだ。
ところが、翌11月になって倶楽部側はこれをひっくり返す。墓地を無償で近所の寺に移し、樹木は伐採すると申し出た。“ちゃぶ台返し”と言ってもいいこの提案に対し、井田家側は当然ながら猛反発、倶楽部は再考を余儀なくされる。
結局、1931(昭和6)年に当初の覚書どおり墓地を永久保存するという証書が改めて作成され、墓地問題は決着。新競馬場は1932(昭和7)年に着工の運びとなった。







