やむなく受け入れた設計見直しで
まさに逆転の解決策が生まれた?
この経緯に、東京競馬場のコースを左回りにした理由が見え隠れしているのではないか?倶楽部側がはじめに墓地を残すとした時点では、右回りのコースが計画されていたのかもしれない。
しかし、そうすると墓地は極めて厄介な場所に存在することになる。そのため、倶楽部は墓地の移転と樹木の伐採を申し出たが、井田家はこの提案を頑として受け入れなかった。そこで倶楽部は、用地買収が長引くことを避けようと当初の設計を見直し、コースを左回りにすることで問題を解決した。そう推測したのだが、いかがなものだろう?
ためしに、東京競馬場開場当初のコース図を左右反転させ、同じレイアウトで右回りのコースにした場合を仮想してみたところ、“大ケヤキ”は芝コースの内側、練習馬場の第1、2コーナーの上に重なってしまうことがわかった。
同書より転載 拡大画像表示
『東京競馬場50年史』によると、目黒から府中に競馬場を移転させる際の基本方針とされたのが、ほぼ1周で1マイル半(2400メートル)のレースを実施できるコースを作るということ。そう、日本ダービーの舞台としてふさわしい競馬場にすることだった。
墓地が導いた左回りコースにより
ダービーと同じ競馬場が生まれた
イギリスのダービーにならった東京優駿大競走の創設が提唱され始めたのは大正末期。政府から開催の承認を得たのは1930(昭和5)年のことだ。東京競馬倶楽部としては、府中に新設する競馬場を何が何でも理想的なものにしたかったはず。そこで2400メートル戦の実施を軸にコース設計が行われた。
しかし、目黒と同じ右回りにすると、井田家の墓地を避けてコースをレイアウトするのが難しくなる。墓地をそのまま残すには左回りにするしかなかった。イギリスのダービーが開催されているエプソムダウンズ競馬場も左回りだ(周回コースではなく、右にカーブする部分もあるが)。だったらむしろそうしたほうがいい。“井田家墓地起因説”が最も有力な理由に思えてきた。
同書より転載
結局のところ、確かな資料が見つからない限り、東京競馬場を左回りにしたワケは“諸説あり”としておくしかない。ただ、その“諸説”を総合すると、東京競馬場はコースを左回りにしたことで、さまざまな“いいとこ取り”をしたように思われる。厩舎は良質で豊富な水源を苦もなく利用でき、スタンドは鉄道によるアクセスに便利で、井田家の墓地も無事に残った。加えて、日本ダービーがイギリスのダービーと同じく左回りで行われ、そのゴールはもちろん、スタートの瞬間も正面スタンドの目の前で見られるようになったのだ。そう考えると、今後、東京競馬場のレースを見る目が変わりそうな気がする。
『競馬史発掘 正史に書かれなかったあんな話こんな話』(矢野吉彦・講談社)







