とはいえ、はじめに「野崎の設計図ありき」だった。当時の日本の競馬場は右回りが主流で左回りは珍しかったが、野崎にとってみればそんなことは関係ない。南武鉄道が走るのは競馬場の西側。野崎がそれを考慮して競馬場を設計すれば、当然ながらスタンドは西側になる。言うまでもなく、利用客にとってはそのほうが駅に近くて便利だ。あとはそれに合わせてコースを左回りとし、東側に厩舎地区を配置すればいい。東京が左回りになったのは、そういう理由だったのではないか?

 これが東京左回りの“鉄道起因説”。野崎の設計図が競馬場全体を描いたものだったら、この推論はかなり「いい線行っている」と思う。一方、それがスタンドだけのものなら、コースや厩舎などを含めたレイアウトは見えてこない。設計図、いや、せめてそのコピーだけでも残っていれば、この説を裏付ける確かな証拠になり得るのだが……。

国鉄“競馬場線”東京競馬場前駅跡同書より転載

競馬場移転成功には
鉄道路線確保が必須

 鉄道好きが我田引水しているわけではないが、“鉄道起因説”を推す材料はほかにもある。新競馬場にとって、鉄道による来場者輸送体制の強化はオープン前からの大きな課題だった。

 南武鉄道は府中への競馬場招致を後押ししたものの、川崎・立川間の路線で東京都心には直結していない。また、今でこそ都心と競馬場とを結ぶ太いパイプとなっている京王線も、当時は“路面電車に毛が生えた程度”の鉄道で、大観衆が詰めかける競馬場へのアクセス路線としては極めて頼りなかった。

 その弱点を解消するため、東京競馬倶楽部は鉄道省による新線敷設と新駅設置を目論んだ。もともと競馬場の西側には、中央線国分寺駅から多摩川の河川敷に至る砂利運搬用の貨物線があった。同線は1921(大正10)年12月以降、営業を休止していたが、これを復活させた上で途中から分岐線を新設、その終点に競馬場のアクセス駅を作れば、東京都心と同駅との間に直通電車を走らせることができる。