「細木は青山に夢中だったが、青山の家族が細木との結婚に反対した。そのため細木数子は生きるの死ぬのと自殺騒ぎまで起こした」(当時を知る渋谷・百軒店の元住人)
細木はHとの結婚は玉の輿と張り切り、江上トミ料理学校に通い、草月流の華道や裏千家の茶道を勉強した。Hの家には姑や小姑がいたため、嫁の細木に自由になるカネはなかろうと、『かずさ』を弟の久慶に任せてリース料を取る一方、世田谷区成城に20坪ほどの店舗を借り、ベビー用品店『バンビーノ』を開店したりした。久慶は1962(昭和37)年中央大学の文学部を出たばかりだった。
細木はタンス七棹や電気冷蔵庫、洗濯機など5トン積みトラック2台分の花嫁道具を準備して嫁入りしたが、開店したばかりの『バンビーノ』が気になってしようがない。そのため1週間の新婚旅行中、箱根小涌園に1泊しただけで夫を放り出したまま成城の店にかかりきりになった。
だが、H家は結婚まもなくもらい火で全焼し、細木が持ち込んだ花嫁道具や衣類はことごとく灰になった。姑は火災後、Hのものは下着からシャツ、スーツまで用意したが、嫁の細木には下着一枚買ってくれず、細木は結婚わずか3カ月でH家を飛び出した(『女の履歴書』による)。
玉の輿婚はなぜ
わずか3カ月で崩壊したのか
実際に細木がHと協議離婚し、籍を抜くのは3年半後の1966(昭和41)年12月のことである。その4年後、Hは再婚して2人の子をもうけ、現在もなお静岡で眼鏡店を営んでいる。
Hにあらためて細木について聞くと、言葉少なにこう答えた。
「(細木は当時)年相応に会話とかはしっかりしていたけど、右も左も分からないような女の子だった。つまり水商売の女の子ですよ。昔はかわいかったけど、(今はテレビなどで見ると)ブタになっちゃった。
(当時から)仕事向きというか、商才があると思った。占いの話なんてしたことがない。まあ、(その後)努力したんだろうね。こんなに有名になるとは思いもしなかった」
結婚するいきさつはどうだったのか。







