今でも同期や尊敬する先輩とのつながりがあり、応援してもらっています。大学病院だったので、最新の技術を目にすることもできて、勉強になりました。
次に働いたのが大学病院の病棟勤務。
手術室経験しかなかった私は、看護師1年目と同じ気持ちで初日を迎えました。患者さんの血圧を測ることすら、手が震えたのを覚えています。
ヒマラヤでの経験によって低酸素状態や高山病が身近だったため、呼吸器を勉強したいと考え、呼吸器内科を希望することに。
内科と言っても、私が配属されたところは、人工呼吸器で生命を維持されている患者さんが何人もいるようなところで、容態の急変はしょっちゅう。毎日、息をつく暇もないくらい忙しい病棟でした。
さらに、血液膠原病内科も混合の病棟で、白血病などの骨髄移植にも力を入れているところだったので、志なかばで亡くなる患者さんもたくさん看てきました。
さまざまな看護業務があるところで学べたこと、呼吸器の勉強ができたことは、とても良かったですし、尊敬できる先輩や上司にも恵まれたと思います。
ヒマラヤ再挑戦への想いが
抑えきれずに退職を決意
初めはここでずっと働いていくものだと思っていましたし、8000m峰に行くことなど考えてもいませんでした。
『エベレストは居酒屋です』(渡邊直子、講談社)
それでも、エベレスト再挑戦への想いが抑えきれず、ついに退職を決意しました。
病院を辞めるときに驚いたのは、病棟の先輩方や上司全員から、手書きのメッセージがびっしり詰まったお守りをもらったことです。仕事以外ではほとんど関わりのなかった人たちからの思いに胸が熱くなり、皆が陰ながら応援してくれていたのだと知りました。
そのお守りは、2013年のエベレスト登頂アタック直前、標高8000m地点のテントの中で開き、涙があふれました。大切な思い出です。
エベレスト登頂後は、本当はもう一度大きな病院で働き、さまざまな科を経験して看護師としての幅を広げたいと考えていました。しかし、毎年のようにヒマラヤ遠征へ向かう海外の登山家たちの姿を見て、「自分も同じようなスパンで山に行きたい」と思うようになりました。
そのため、働き方を見直し、高齢者施設で非常勤の夜勤専従として勤務することに。ヒマラヤ遠征の期間だけ数カ月休ませてもらえる環境をつくり、登山と看護の両立ができるようになりました。理解して支えてくれた当時の上司には、今でも心から感謝しています。







