以前、私が解剖したケースを紹介しましょう。駅のホームで言い争いをしていた2人のうち、突然1人が膝から崩れ落ちるようにして倒れて亡くなったということで運ばれてきました。
亡くなったのは20代の男性。言い争いの相手はその場から立ち去り、行方がわからなくなっていました。
じつは言い争いの現場には亡くなった男性の彼女もいて、争いを止めようとしていたとのこと。彼女の証言では「お互いに手を出したりすることはなく、言い争っていただけでした」ということでした。
しかし、解剖すると意外なことがわかりました。顎の下をY字に切開して首の皮を1枚ずつ剥いていくと、拳がきれいに入った跡があったのです。通常は顎の下から一直線にI字にメスを入れて観察するのですが、何かの勘が働いたのでしょうか、私は「念のためにY字にしておこうか」と言って、首締めなどの跡を調べる際に行われるY字切開で解剖を始めたのでした。
皮膚の表面に皮下出血が出るかどうかは、外力を加えられた身体の部位によって変わります。たとえば、顔を殴られた場合、顔には皮下脂肪が少なく、骨が皮膚のすぐ下にあるため、どのような鈍器で外力を加えても外からみて簡単にわかる皮下出血が生じます。
一方、おなかや首の場合は、外力が加えられてもクッションのようにたわむため、皮下出血が生じにくいのです。
見えない暴力を見抜く
解剖で決定的証拠が明らかに
皮下出血は凶器の種類によっても変わります。硬いものや鋭いものだと、外からみてすぐわかる皮下出血や出血が生じますが、柔らかい凶器だと外表に痕跡が出ません。拳で殴ったり、手で首を絞めたりしても外表からはわかりませんが、皮を剥くと、その下にある筋肉の出血をみることができます。
『私たちはなぜ死ぬのか 法医学者が語る「永く、よく生きるための技術」』(高木徹也、CEメディアハウス)
ただ、首を殴られただけで死ぬとも思えません。そこで、さらに解剖を進めていくと、くも膜下出血を起こしていたことがわかったのです。出血を起こした血管を観察すると、動脈瘤や若い人の突然死に多い動静脈奇形はみつかりませんでした。
しかし、物理的な亀裂が入っています。そこで、この男性は、首を殴られたことによって首を通って脳に向かう総頸動脈(けいどうみゃく)が物理的に引っ張られ、脳に行く血流の圧が瞬間的に高まってくも膜下出血を起こしたのだ、と判断しました。死因は「頸部打撃に基づく外傷性のくも膜下出血」です。
のちに犯人が捕まり、取り調べの中で「確かに相手を一発殴りました。信じられないくらい深く入ったのを覚えています」と話していたそうです。
本当の死因は解剖しなければわかりません。もしこのケースをCT検査だけで済ませていたら、病気のくも膜下出血と判断されていたかもしれません。解剖しなければ犯罪の見逃しが増えるということを象徴する事例で、いまでも記憶に残っています。







