米国やイスラエルの過剰な軍事力行使は、怨嗟の渦を広げるばかりか。Photo:REUTERS /AFLO
70年前の「スエズ危機」が、世界の覇権が英国から米国に移る決定機となった。今日の対イラン戦争で米国は二の轍を踏むのか。世界的ベストセラー『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の著者、バルファキス元ギリシャ財務相はスエズ危機ではなく、自らの軍事力を過信し、戦略的混乱を露呈した110年前の「ガリポリの戦い」の失態に近いと見ているようだ。
1956年、エジプトは5カ月にわたってスエズ運河を封鎖した。これを機に英ポンドの国際的な地位は失墜し、「ペトロダラー」時代の幕開けとなった。たとえ小国であっても、長年にわたり抑えつけられてきた経済大国に対して深刻なダメージを与えうることを立証したのである。
米国が今直面している事態はこの「スエズ危機」の再現ではないか、という見方がある。ホルムズ海峡封鎖による金融面への影響の解釈としては安易だが、対イラン戦争というドナルド・トランプ米大統領の愚行にもかかわらずドルの覇権は揺るがないと根拠なく思い込むのも、安易さという点では似たようなものだ。
もっとも、イランの動きをスエズ危機になぞらえることは誤解を招く。確かにエジプトもイランも、自国の管理下にある水路を封鎖して原油供給を締め上げた。覇権国におけるエネルギー価格は急騰し、金融市場のみならず、最貧困層も打撃を受けた。肥料や輸送といったコストの急騰で過大な打撃を受けるのは常に最貧困層だからだ。しかし、いくつかの根本的な相違点を考えれば、米国にとってのホルムズ海峡は英国にとってのスエズ運河にはなりそうにない。
スエズ危機は、単に英国の破産を確定させたにすぎない。それは、その11年前、新興の覇権国である米国による意図的かつ的確な行為がもたらした結果なのだ。米国は1945年12月、英国の戦時債務を借り換える形での有利子融資に引きずり込み、英国の財政破綻は避けがたくなった。スエズ危機は単に、破産したかつての帝国が、もはや帝国としてのパワーを発揮できないことを確認しただけである。これとは対照的に現在の米国は、トランプの無能さや無謀なガバナンスがあるとしても、そうした荒廃とはおよそ無縁である。
連邦政府の財政赤字・債務の膨張という背景のもとで、米国債の利回りをめぐっては大きな不安があるが、これを1956年当時の英国財政の逼迫と比較するのは的外れである。大英帝国はポンドに関して、[米ドルのような]法外な特権を確立することは決してなかった。つまり米国は、世界各国に対する膨大な貿易赤字の裏面である巨額の資本流入によって自国の財政赤字を補填できるという、驚くべき能力を有しているのだ。
今日、世界各国は、米国以外から原油を購入するために年間約1兆ドルを必要としている。これは2026年の米国防予算とほぼ同規模だ。世界各国は、エネルギーや原材料、米国製兵器を購入するため、他国に製品やサービスを輸出しなければならない。米国以外のすべての国は、必要なもの、欲しいものを購入するためにドルを必要としているが、米国だけはドル紙幣を「印刷」し、借入コストを他国に転嫁している。加えて、ドル建債の発行残高が世界全体で100兆ドルに及ぶことを思えば、米国の持続的かつ並外れた特権がますますはっきり見えてくる。英国にはそのような特権はなかった。
同様に、米国民の大半がガソリン価格の上昇に苦しんでいるとはいえ、米国はガソリン供給を維持するために湾岸諸国からの原油を必要としていない。1956年当時の英国は違った。自国のエネルギーを賄うためにも、また対外取引の相当部分でポンド建決済を維持するためにも、スエズ運河を経由する原油を必要としていた。
両国の銀行システムについての事情も似ている。スエズ危機はロンドンの金融街シティの収益に深刻な打撃を与えた。70年後の今日、米ウォール街の銀行は第1四半期に400億ドル以上のトレーディング収益を計上している。米国企業社会と同様、主にトランプの無謀さによって生じた金融市場の混乱によって利益を得ている。米国の覇権とその支配階層の富が米国民の幸福と逆相関にある世界において、米国民の大半がひどい苦痛を味わっているという事実は無視される。皮肉なことに、この矛盾を追い風に、トランプは大統領の座にまで登りつめたのである。







