これまで高度専門職だけが担っていた知的作業の一部が、AIを通じて広く開放されている。専門性が不要になるわけではないが、何が希少で、何が代替されやすいかは急速に変わる。この状況では、「将来必要なスキル」を特定すること自体が難しく、それに向けて計画的に再教育を行うという従来型のリスキリング論は相当に不安定になる。学び終える頃には、その価値が相対的に下がっていることにもなりかねないからだ。
むしろ今後重要になるのは、問いを立てる力、文脈を読む力、変化の兆しをつかむ力、異分野をつなぐ力、そしてAIを使って仕事を再構成する力だろう。だが、こうした能力は、従来の人事制度が得意としてきた「スキルの見える化」では扱いにくい。
リスキリングは必要である。ただしそれは、「会社が将来必要なスキルを決め、社員に学ばせる」では済まない。何が来ても学び方を変え続けられる個と組織をどうつくるかを考える必要がある。
人を「資本」と呼ぶことの限界
人的資本可視化指針のもう1つの特徴は、人間をかなり一貫して「企業価値向上のための資源」として扱っている点にある。もちろん、「人的資本」が株主視点を意識した言葉である以上、そうした論調になるのはある程度は避けられない。実際、指針も人的資本投資を企業価値向上に資する成長投資として位置づけている。
ただ、いま起きているのは、企業が人材を育てて活用するという一方向の構図の揺らぎである。生成AIを使えば、個人や小規模チームでも以前より大きな成果を出せる。優秀な人ほど、1つの企業に深く依存せずに仕事がしやすくなる。企業に問われるのは、「どう育てて使うか」だけではない。「この会社にいる意味がある」と感じてもらえるかどうかである。
ところが、人的資本開示の議論では、どうしても人を管理可能な対象として見る発想になる。エンゲージメント、離職率、育成投資、健康投資。いずれも重要だが、それらを整えれば人が惹きつけられるわけではない。
本当に力のある人材ほど、その企業の人間観を敏感に見抜く。人を資源として扱っているだけなのか。それとも、知性や意思を持つ主体として見ているのか。この差は小さくない。
後者を感じられない企業からは、優秀な人ほど静かに離れていく。ここには皮肉な逆説がある。人的資本可視化を熱心に進める企業ほど、場合によっては「人を資源として操作しようとしている会社」に見えてしまうのである。







