そりゃ東大生にブッ刺さるわ…野田秀樹の入学式スピーチが「めちゃくちゃ」なのに絶賛されたワケPhoto:JIJI

2026年の東大入学式で、AIを引き合いに出した劇作家・演出家の野田秀樹氏の祝辞を多くの人が絶賛している。詩的な表現に満ちた感動的な祝辞だが、本人も「話はめちゃくちゃ」という通り、論理の流れを追うと問題点が多い。ここではなぜ論理性において問題のある言説が広く受け入れられることになったのかを考えてみたい。(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)

野田秀樹氏の祝辞を「論理的な言説」として読むと…

 令和8年度東京大学入学式における野田秀樹氏の祝辞(※)は、多くの人に強い印象を与えたようだ。「AIには身体がない」という表現や、身体に根差す心こそが人間の本質だという意味の主張は、AI時代における人間の価値を再確認する言葉として受け取られやすかったのだろう。
令和8年度東京大学学部入学式 祝辞

 文章としても比喩が巧みで、式典の場にふさわしい高揚感を巧みに生み出している。ただ、この祝辞を(野暮を承知で)論理的な言説として読んでいくと、いくつかの重要な検討課題が浮かびあがってくる。そこに含まれるAI論、身体論、人間論が、どういう点で吟味を要するかを整理してみたい。

 なお、以下の文章は祝辞の価値を否定しようとする意図によるものでは全くないことをお断りしておく。

(1)祝辞の中心テーマ

 祝辞全体を貫く主張はおおむね次のように要約できる。AIには身体がなく、したがって身体に根差す心もない。ゆえに人間はAIとは異なる次元に立っており、単純に優劣を比較することはできない。この問題意識自体は理解できる。AIが高度化する時代において、人間の経験、感情、有限性、創作の喜びといったものを再考しようとする姿勢には、それ自体に意義がある。

 ただその意義と、そこから導かれる論理的な結論とは、別々に考える必要がある。「身体が心の形成に影響する」という主張については議論の余地があるとしても、「身体がない存在には原理的に心のようなものが宿ることはありえない」という強い主張が、十分な論証なしに結論として置かれている点が問題だ。