月単位の変化を前提に

 最大の問題は、やはり時間軸だろう。人的資本可視化指針は、人材戦略を立て、指標を設定し、モニタリングし、開示し、対話を通じて改善していく流れを基本にしている。制度としては筋が通っている。しかし、生成AIの進展は、このサイクルの実効性を難しくしている。

 いま起きている変化は月単位で前提が変わる。AIツールの性能向上によって、これまで人が担っていた仕事の一部が消えたり、別の形に組み替えられたりする。すると、必要人員、スキル要件、評価基準まで連動して変わっていく。

 生成AIが進展した世界で、有価証券報告書や統合報告書のサイクルに人的資本戦略を乗せることに、どこまで意味があるのか。公表された時点で、すでにかなり前の時点の整理にすぎなくなっている可能性が高いからである。

 しかも企業は、その整備に相応のコストを払う。データを集め、指標を定義し、部門間で整合性を取り、ストーリーを整える。作業自体は真面目だが、変化が速すぎる環境では、真面目さが「実際に適応するための時間」を食ってしまう。

 本来なら、AIによる変化を見ながら、役割を組み替え、小さく試し、すぐ修正するべき時間が、説明の整備に吸い取られる。そうなれば、企業は「変化に対応する組織」ではなく、「変化以前を説明する組織」になってしまう。

求められるのは、計画能力より適応能力

 こうして見てくると、人的資本可視化指針の弱さはかなり明確である。人的資本を重視するのはよいが、その重視のしかたが、「予測可能な未来に向けて整える」型というのがそもそも現実的ではない。

 AI時代に必要なのは別の能力だ。未来の人材像を精密に描く力よりも、その人材像がすでに古くなっていないかを疑う力、ギャップを埋める力よりも、そのギャップ設定自体を見直す力、指標を整える力よりも、指標では捉えきれない変化の兆候を拾う力――。

 前提を固定しすぎず、変化を見ながら小さく組み替え続けることが、これからの人材戦略の中心になるはずだ。人的資本可視化指針は一見よくできているように見える。だが、その「よくできている」こと自体が、いまの時代には少し危うい。