《少なくとも資本主義体制をとる近代国家においては、性は、市民(国民)を、資本主義社会が要請する人格/身体に、また国民国家の体制に合致する人格/身体に仕立てあげるために動員された主要な装置だった。

 それは、人をはっきりと男か女に弁別し、そして男には公的領域、女には私的領域(ドメスティックな領域)を振りあて、さらには女を、家庭のなかのまともな女と、家庭のそとで働くいかがわしい女、また敬意を払うべき国内の女と、敬意を払わなくてもよい国外の女に分断するものである。》(竹村和子『フェミニズム』岩波現代文庫、2024年、13-14頁)

《フェミニズムは英語から入ってきた外来語だが、『オクスフォード英語辞典』(第二版)によれば、ここで言うフェミニズムの意味は、「(両性の平等という理論にもとづいた)女の権利の主張」と定義されている。この定義にしたがえば、次の二つのことが前提とされる。

 一つは、少なくともフェミニズムが存在している社会においては、女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られていること(そう認識されていること)、もう一つは、性的に抑圧されている者(「女」と呼ばれている者)は、「女」という立場を維持したまま、その十全な権利を主張していくということである。

 これらの前提から類推される事柄は、社会の成員は「男」と「女」に二分され、この二つの性のあいだの力学に不均衡が生じていて、フェミニズムは、権利を奪われている女が、権利を過剰に付与されている男に対して異議申し立てをするものだという図式である。》(同書、ⅳ-ⅴ頁)

本当の意味で「平等」な
社会を目指すには?

 このように現代日本におけるジェンダーギャップ指数の低さは、近代社会そのものがつくり出した構造的な問題といえます。近代における男女の違いは生物的な差異というよりも、資本主義や国民国家体制に適した人間像をつくるために制度的に形成されたものだと、竹村さんは述べています。男は公的領域で働くことを期待され、女は家庭という私的領域にとどまるように仕向けられてきたのです。