近代社会が理想とした
「単一の性」の不自然さ

 イリイチはむしろ近代社会における自立した主体こそが、ジェンダーを欠いた「ジェンダー不在の人間」であると述べています。これはどういうことでしょうか。

 近代社会においては、全ての人が市場における労働力として等価に扱われることが理想とされます。その結果、男性と女性の身体的、社会的な差異はなかったことにされ、「単一の性」が目指されたというのです。もちろんそれは市民や社会人として互いを対等に扱う上で重要な進歩だったのだと思います。

 しかし同時に生き物として、男性、女性といった身体的な差異をはじめ、身長や体力、感受性や嗜好といった多様な「生の違い」を抱えて生きていることは意図的に無視されてきたのです。

 この点で、イリイチの立場はフェミニズムとは異なることが分かります。フェミニズムが近代社会の中で女性が男性よりも劣位に置かれてきた社会的不平等を批判し、男女の平等を回復しようとする運動であるのに対し、イリイチはそもそも近代という枠組みそのものを問い直しているからです。

 彼にとって問題なのは、男女が不平等であること以前に、近代において人間が市場の中でジェンダー不在の人間として同質化され、生活世界から切り離されてしまったことなのです。

 イリイチは近代社会における「労働力としての自立」を厳しく批判しましたが、僕はその中にも一定の自由の芽があったと考えています。なぜなら性別にかかわらず労働力を提供できる社会の実現は、明らかに市民的平等への大きな一歩だったからです。

男女が分かれていることは
不自然なことではない

 男性にしか就けない仕事、女性にしか門戸が開かれない職域、そうした不平等は誰にとっても息苦しいものです。その意味でフェミニズムが訴えてきた「平等を求める声」は、極めて真っ当な主張だと思っています。

 僕自身、母が病院で働いており、幼い頃はシングルマザーだったこともあって、よくその職場に出入りしていました。振り返れば、僕は働く女性たちに囲まれて育ったといえます。僕にとって女性が働くことはごく自然なことであり、違和感など全くありませんでした。

『資本主義を半分捨てる』書影『資本主義を半分捨てる』(青木真兵 ちくまプリマー新書、筑摩書房)

 けれども母はもともと裁縫を専門とし、大学で教員をしていたのですが、結婚を機にその職を辞めざるを得なかったといいます。病院という女性が多く働く職場の現実、そして結婚や出産を機に仕事を手放さざるを得ない社会の構造。その両方を見て育った僕は、やはり男女の間には未だに越えがたい隔たりがあるのだと実感せざるを得ません。

 しかし同時に、僕自身が山村で暮らすようになって強く感じているのは、男女が分かれていることそのものはそれほど不自然なことではないということです。人間もまた自然の一部であり、自然の環境に身を置くほど、その事実を身体全体で理解するようになります。

 春は命がいっせいに生まれ、冬には一気に衰え、死んでいく。その循環の中に暮らしていると、イリイチが語ったような生と死、昼と夜、男と女などの「2つの原理」によって構築されている世界を感じます。自然の中で生きることは男女の違いをことさらに意識することではなく、それぞれが自然の一部としての役割を果たしながら、互いを生かし合う関係に戻ることかもしれないと思うのです。