どうして偏った議論が展開されてしまうのか?
開沼 磯部さんのようなフレームで語れる人、自分自身の「正しさ」を認識しつつも、そうではない正しさもあり得ることも視野に入れようとする言葉は、どうすれば育っていくのでしょうね。
結局、ある問題があったときに、その議論がいくら盛り上がったとしても、両義性を見られる書き手・語り手が一定量いないと、誰も調停しなくなるわけです。反対派も賛成派も、廃止派も推進派も、互いのタコツボの中で議論をし続けることになります。
両者の構造を見えている人がいて、仕方なくその調停のポジションに身を置くことによって、議論がうまく進むことがある一方で、そうした存在が一切いないなかで、盛り上がっているようで、実質的な議論は何も進んでいないという部分もあると思うんですよね。
磯部 ええ。
開沼 例えば、オウム真理教による地下鉄サリン事件があったのが1995年。それから18年が経っています。けれども、森達也さんの『A3』(集英社)では、オウム真理教をひたすら叩いて叩いて、叩き潰してきた結果、何がわかったのかというと、何もわかってないとういことを言及されています。
国松長官狙撃事件をはじめ、オウムに関わるあらゆる解決すべき課題が解決されない一方で、あらゆることの元凶が「麻原の頭はおかしかった、以上」という点に回収されるばかりになってしまう。
両義性を担保する語り手をなかなか生産できないことに、磯部さん自身も悩みながら、ご自身の立場を置いているんじゃないかなと勝手に想定しているんですが、いかがですか?
磯部 風営法改正と運用レベルの改善の両輪で進むという今のスタンスも、左派的な運動の限界も、コミットしたからこそ見えてきたというのはあります。例えば、最近、クラブ・ミュージックのアーティストたちとミーティングをしているのですが、当初に話したとき、彼らは「FUCK風営法!」「FUCKバビロン!」みたいな、いかにも反権力的な意見を持っていた。
それが、問題に深くコミットして、警察や事業者や近隣住民といった様々な人の意見を知ることで、「やっぱり、クラブ側も改めるところは改めないと……」みたいに理解が進むんですよね。彼らを見ていると、やはり、コミットするということ大事なのかなと。ただ、それで陰謀論に進んで行く人もいるからなぁ。
開沼 陰謀論に進むとは、コミットすることによって、複雑性を体感して新たな思考を始めるのではなく、少しコミットしただけで、当事者意識の権威性をまとって思考停止してしまうということですか?
磯部 まさにそうですね。
開沼 原発でも「俺は福島行ったんだ!」と、何度か足を運んだ、何人かの知り合いができたことを根拠に、ちょっと聞きかじった話を何回も使いまわしながら、「社会の裏側にあるからくりを解き明かしたんだ」とでも言わんかのごとく、酷い陰謀論に走る人は一定数います。