加害者性を意識することが運動のスタート

開沼 そこを変えていく契機として、クラウド化された運動がもっとたくさん出てきてくればいいという指摘が、それこそ3・11以降にありました。それは1つの重要な処方箋だと僕も思います。

 しかし、現実的には、1つの物語のもとに個人が集まるという形態を考えると、どうしても社会にとって有益なものより、害のあるもの、排他性と被害者意識にまみれたもののほうが人を吸引してしまう可能性は高いでしょう。その点、どうしていけばいいと思いますか?

磯部 急進的な反原発運動も含めた、新しい社会運動の共通の課題でしょうね。そうならないために必要なのは、例えば、自分の加害者性を意識することでしょうか。クラブと風営法の問題でいうと、「踊る自由が規制されている」と被害者面するだけでなく、自分たちも地域に迷惑をかけていることに気づけるかどうか。

開沼 その通りだと思います。加害者性と、自分たちを外部として見る者の眼差しの自覚。

磯部 警察が来て、クラブを追い出されて、「こんな社会、おかしいだろう」と憤りながらポイ捨てをする。そんな自分を離れたところから見る視点を持たなくてはいけません。

開沼 例えば、キリスト教に原罪という言葉がありますが、生まれながらにして罪を背負いながら生きていくのが人間であるという物語、それはフィクションでしかないのかもしれませんが、それを人間が発明して使い続けていること、その機能は重要です。特に、原発問題にコミットしていると強く感じることでもあります。『「フクシマ」論』(青土社)は、原罪性を意識化しようという取り組みかもしれないと自分では思っています。

 今年の4月にチェルノブイリの博物館に行ってきましたが、そこの展示は、ロシア正教のシナリオに合わせて作られていることを知りました。最初は、事故の服や作業員のマネキンがあり、次に、事故の後、世界から送られてきた物資が置かれ、最後に、ボートに乗っている人形があります。チェルノブイリの近くから持ってきた子ども用の人形だそうです。

 それは、事故によっていろいろな被害を受けた人たちを象徴していて、そのボードはノアの箱船を意図していると。つまり、すべての人が背負うべき絶望的な悲劇と原罪が最後に救済されるという物語で語られていました。

磯部 なるほど。

開沼 最後にキュレーターから話を聞きました。日本では、東電が悪い、国が悪い、原子力を推進してきた人が悪いと語られていますが、「チェルノブイリの博物館に携わってき人間として。誰に責任があると思いますか?」と尋ねると、「全員だ」と答えたんですね。そう見えるような展示になっていて、ある程度、そう答えるだろうと思ったので僕も聞いた部分はありますが。

 おそらく、そうした原罪性、「お互い様」や「情けは人のためならず」と表現は何でも構いませんけど、自身の加害者性や、何かに支えられているという感覚が失われているが故に起きている対話のなさをどう乗り越えていけるかが重要だと思っています。磯部さんがおっしゃる加害者性の自覚とは、まったくその通りだと思います。