当然、飲み会も悲惨なことになる。会社員の飲み会は肩書にもとづくメンバーと肩書に付随するトークが中心だから、会社を辞めるとまず飲む相手が激減する。いたとしても話すこともだんだんなくなる。「私はこんなに薄っぺらい人間だったのか」と気づいても遅い。現役時代にやるべきは上司へのゴマすりでも残業でもない。会社のポジションと関係なく、生身の自分として飲める、名刺を切らずにでも飲める仲間をつくっておかなければいけない。

 だから、本田宗一郎は肩書をあえて偽った。ホンダ創業者の本田宗一郎としてではなく、一人の人間として生涯、酒場を楽しんだ。常に自分を見失わなかった。

本田宗一郎は立場を隠して
人の本音を聞いていた

 本田は修理業が軌道に乗ると、エンジン部品のピストンリングの製造に乗り出し、成功を収める。戦後になるとホンダの前身となる「本田技術研究所」を始め、エンジン付き自転車「バタバタ」やオートバイの成功で会社を一気に大きくする。「世界のホンダ」の誕生である。

 その後、自動車事業にも進出するが、手掛ける製品が変わっても本田の商売の基本は変わらなかった。

 いかにつくるかではなく、いかに売るか。

 令和の今では当たり前に思えるだろうが、昭和30年代にこれを看破していた。「つくれば物が売れる」時代に、物を売るための方法を徹底的に考えていた。技術屋の頑固おやじと思われがちな本田だが技術屋だけに技術屋ならではの極度の技術偏重を嫌った。

「つまり、それってマーケティングでしょ?」と指摘されそうだが、本田のマーケティングとみなさんのイメージするマーケティングは違うかもしれない。彼はデータをあまり重視しなかったことでも知られる。市場調査についても「専門家がなぜ素人に意見を聞かなければいけないのだ」といってはばからなかった。

「僕は、市場調査を、過去の足跡をたしかめること、自分の意見を大勢の社員に納得させる場合の手段として使うこと以外には考えていない」

 市場データだけに執着する令和の管理職には耳が痛い言葉かもしれない。