では、本田はどのようにして売れるアイデアのヒントを探ったのか。それは結果的には「遊び」によるものだった。

 データとにらめっこしているのではなく、遊ぶことが人間を知ることになり、まわりまわって商売にもなる。そのためには、自分を型にはめず、行動する事が必要であり、酒席での人間観察が欠かせなかったのだ。

 ただ、これは簡単そうで簡単ではない。いくらフラットの目線で酒席を楽しみたいと思っていても、周りはあくまでもホンダの創業者として対応する。国内のみならず海外にも名が広まった企業の社長になると周囲が異常なまでに気を遣う。率直な意見が聞けなくなる。飲みの席こそ人間の本音を聞ける場なのにその機会が失われてしまう。

 そこで本田は「偽装工作」を始めたのだ。

「ただの人」を装い
世の中の本音を聞く

 60歳を過ぎ、会社が国内有数の企業に成長してからも、本田は本田宗一郎と名乗らずに、「ただの人」として飲み屋を訪れ、世の中を観察し続けた。

『偉人たちの酔っぱらい流儀』書影偉人たちの酔っぱらい流儀』(栗下直也、平凡社)

「僕は、もともと好奇心のある方だから、いろんなものをいじるのが好きだし、いろんなところへ顔を出すようにしている。一杯呑み屋にもよく出かける。それが自分の固定観念をうちこわすには大いに役立っている。(中略)商品である以上、大勢の人が対象だから、みんながどういう欲望をもっているかを見抜かなければ話にならない」

 これが単なる市場調査と違うのは、本田が「偽装」することで、人々の本音を直接聞けた点だ。「ホンダの社長」が来れば、誰もが気を遣い、本音をいわない。しかし「耳鼻科医」なら、車の不満も、生活の愚痴も、何でも話してくれる。

 上野の飲み屋で「耳鼻科の先生」として常連になったときも、会社の仕事の話をするわけでもなく、偉ぶることもなかったので女将も信じ切って、無駄話に興じていた。

 この「偽装工作」から本田が得たものは計り知れない。庶民の本音、世間の動向、時代の空気。データには表れない生の声が、世界に誇る製品開発のヒントになったのである。