飢餓地獄となった三木城

 その後も、三木城を取り巻く状況は悪化の一途をたどりました。丹波では波多野秀治が敗れ、備前では宇喜多直家が織田方へ転じました。

 さらに天正7年11月には有岡城も落城し、別所氏を支援できる勢力は、ほぼ消滅してしまいました。

 長期間の包囲によって、三木城の兵糧は完全に底をついていました。伝えられるところによれば、城内では雑草までも食べ尽くされ、多くの餓死者が出たといいます。まさに「干殺し」の名にふさわしい状況だったのです。

若き城主・別所長治の最期

 天正8年(1580)、別所長治は、ついに決断を下しました。自らの命と引き換えに、秀吉に城兵や民衆の助命を願い出たのです。

 秀吉はこれを受け入れ、和睦が成立しました。

 その後、秀吉が長治の労をねぎらう宴を催したのち、長治は妻子とともに自害しました。

 長治が残したとされる辞世の句は、

 今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば

 というものでした。自らの死によって家臣や領民が救われるのであれば悔いはない……そんな覚悟を感じさせる辞世として知られています。

 享年は23歳とも26歳とも伝わります。

 三木合戦は、戦国時代の苛烈な現実を象徴する戦いでした。同時に、中央集権化を進める織田政権と、在地領主たちの伝統的な支配体制との衝突でもあったのです。

羽柴秀吉(右、池松壮亮)、秀長(左、仲野太賀) (C)NHK羽柴秀吉(右)と秀長(左、仲野太賀) (C)NHK

 動画ではこの他、別所賀相(長治の叔父)の妻で、女傑として知られる波(なみ)について話しています。またその下には、三木城が今どのようになっているか、兵庫県三木市公式チャンネルの動画も併せて掲載しています。