ところが天正5年(1577)、羽柴秀吉が播磨へ進出し、短期間で各地を平定すると状況が変わります。従来は別所氏をはじめとする播磨の国衆が、それぞれ独自の支配体制を維持していたところに、秀吉が支城の破却を命じ、播磨全体を織田家の統一的な支配下に組み込もうとしたのです。

 近年発見された秀吉の書状からも、別所氏離反の大きな原因の一つが、この支城破却政策だったと明らかになっています。織田方から見れば合理的な政策でしたが、国衆たちにとってみれば、代々築いてきた支配体制そのものを否定されるようなものであり、そのため強い反発を招いたのです。

 さらに別所家内部でも、意見は分かれていました。長治の叔父の別所賀相(よしちか)は親毛利派であり、もう一人の叔父の別所重棟は親織田派であり、家中にはもともと対立の火種が存在していたのです。

 こうした事情に加え、将軍・足利義昭からの働きかけなどもあって、別所長治はついに織田方から離反してしまいます。

三木城包囲戦の開始

 天正6年(1578)2月、別所長治は毛利方へ転じ、三木城に籠城しました。これに呼応して、播磨各地の国衆も相次いで織田から離反します。

 事態を重く見た秀吉は三木城を包囲し、竹中半兵衛の進言によって、三木城の北方の平井山に砦を築きました。この砦は、美嚢川を利用した三木城の兵糧補給路を断つという重要な拠点となりました。

 当初、包囲は順調に進んでいましたが、同年10月、秀吉にとって予想外の出来事が起こります。摂津の有力武将・荒木村重が、織田信長に反旗を翻したのです。

荒木村重とその妻・だしについては前回記事を参照 (C)NHK荒木村重とその妻・だしについては前回記事で詳しく紹介している (C)NHK

 荒木村重の離反によって、三木城は摂津方面から補給を受けられるようになり、兵糧不足に苦しみ始めていた城内に希望が生まれました。しかし信長は即座にこれに対応し、有岡城攻めに大軍を投入します。その結果、摂津からの補給路も遮断されてしまいます。

 さらに同年11月、第二次木津川口の戦いで織田水軍が毛利水軍を破ったことから、海上からの補給も困難となりました。

 こうして三木城は、完全に孤立してしまったのです。

決死の反撃と、竹中半兵衛の死

 天正7年(1579)2月、籠城開始から約1年が経過した頃、別所氏は反撃に打って出ました。長治の弟である別所治定を総大将とし、平井山砦への総攻撃を敢行したのです。

 もし砦を奪還できれば、美嚢川を利用した補給路を回復できます。これはまさに、起死回生を狙った作戦でした。

 しかし、この動きは竹中半兵衛に見抜かれていました。待ち構えていた秀吉軍の鉄砲隊によって別所軍は大打撃を受け、治定も討死。反撃は失敗に終わります。

 一方、このころ秀吉方にも大きな損失がありました。この戦いから数カ月後、病を患っていた竹中半兵衛が、平井山砦で死去したのです。享年36ともいわれる、若すぎる最期でした。