「はい。ですが、転落を防ぐための対応で――」

「男性の先生が女子生徒に触れるなんて、あってはならないことです」

 私は、言葉を一つ飲み込んだ。

「もし触れずにいて、お嬢さんが階段から落ちていたら、大きな怪我につながった可能性があります」

「そんなの、触らずに済む方法があったはずです」

「たとえば、どういう方法でしょうか」

「女性の先生を呼ぶとか」

「授業中の緊急事態でした。お嬢さんご本人が、今すぐ保健室に行きたいと訴えておられたのです」

「だからって、怒鳴る必要はありませんよね」

「怒鳴ったわけではなく、転倒しそうになった場面で、とっさに声が大きくなったのだと思います」

「娘は『怒鳴られた』と感じたんです」

 この瞬間、私はこの面談の難しさを理解した。

「行為が適切か」ではなく
「娘がどう感じたか」が争点

 この件の争点は、行為が適切だったかどうかではない。

 相手の中ではすでに、「娘がそう感じた」という一点が絶対的な事実になっている。

「娘は、体調が悪くて不安だったんです。そのときに男の先生に肩をつかまれて、大きな声で『しっかりしろ』なんて言われた。どれだけ怖かったと思っているんですか」

「お嬢さんが不安な思いをされたことは重く受け止めています。ただ一方で、現場は階段の途中でした。教員としては、まず転倒を防ぐことが最優先になります」

「それは学校側の都合ですよね」

 私は一瞬、返答に詰まった。

 安全確保が「学校側の都合」になるのか。だが、その理屈を正面から否定すれば、さらに感情は硬化するだけだろう。

「この子が苦痛を感じたときに、その気持ちを代弁してやれるのは、親しかいないんです」

 母親はそう言った。私はその言葉の強さを感じた。

 たしかに親は、子どもの最も近くにいる存在だ。

 だが、その“代弁”が、事実の検証や相手の事情の理解を一切許さなくなったとき、対話は成立しなくなる。

 面談はそこで終わらなかった。

 私は何度も説明した。

 転倒の危険性。瞬時の判断の必要性。意図が加害ではなく安全確保であったこと。男性教員が女子生徒に接触することへの社会的な警戒があるからこそ、むしろB先生が最初は距離を取っていたこと。

 しかし、母親の返答は常に同じ場所へ戻った。