準備せねばならない量が多く、彼女は母親の手伝いのために毎日台所に立った。〈安く、手早く、おいしく〉が彼女の料理の3カ条だが、それに付け加えて、彼女の場合は、原体験からして、いわゆる「家庭料理」を前提にしていないというのもポイントだろう。

自由な校風のなかで
シャンソンに目覚める

 威馬雄の存在は、レミの学歴にも影響を与えた。彼女は家からも近い進学校の上野高校に進んだが、学校にはなじめなかった。威馬雄に相談すると、威馬雄は理由も聞かずに「ああいいよ、やめろやめろ」と答えたのだった。レミはこのとき「なんて素晴らしいお父ちゃんだろう」と思ったと回想している。

 その後、文化学院に転入。自由な校風のもとで、レミは伸び伸びとやりたいことをやるようになる。このときに始めたのが、シャンソンだった。声楽家の佐藤美子のもとで学び、卒業後は銀座の「日航ミュージックサロン」やシャンソン喫茶「銀巴里」の舞台に立つようになる。1970年にはレコードデビューも果たした。

 ラジオの司会業やディスクジョッキーの仕事も引き受けた。レミが注目されるようになったのは、こちらの仕事を通してだった。印象に残る声と天衣無縫な性格が聴取者に親しまれたのだ。出世作は、久米宏とタッグを組んだTBSラジオの「ミュージック・キャラバン」の進行役だろう。

 他方で、歌手活動は順調とは言えなかった。レコード会社が求めるのは流行歌であって、レミが歌いたいシャンソンではなかった。結局、彼女は4枚のシングル・レコードを出して、プロの歌手を休業する。ちょうどそのタイミングで、イラストレーターの和田誠と出会い、結婚した。

共働きの家庭が増加して
料理の常識も変わった

 では、いかに彼女は「料理愛好家」になったのだろうか。

 平野レミの料理の腕前が広く知られるようになったのは、文筆がきっかけだった。和田誠の友人だったジャズピアニストの八木正生が、レミが振る舞う料理の味を褒め、料理に関するリレー・エッセーの執筆者として編集者に紹介したのである。このエッセーが反響を呼び、料理の仕事が増え始めた。