給食費が払えず「忘れました」
借金取りが来る家庭で育った
吉永は、1945年3月13日に東京・渋谷区に生まれた。いわゆる東京大空襲の直後である。生家は奇跡的に焼け残ったが、敗戦間際から直後の時期の食糧事情は悪く、吉永家はふたりの娘を育てるのに苦労したという。
父親はかつて外務省に勤めていたが、1943年に転職していた。新たな勤め先は、情報局に付設され出版統制を担った日本出版会だった。戦後になって出版事業を立ち上げるも失敗。家計は火の車となり、家には税務署の役人が差し押さえに来たり、借金取りが来たりしたという。
吉永は小学生の時に、給食費が払えず、何度も「忘れてきました」と繰り返すという苦い経験をしたというが、彼女が芸能活動を始めたのは、両親の強い希望だけでなく、生活苦も影響していたのかもしれない。
1956年、ラジオドラマ『赤胴鈴之助』の子役に応募すると、千葉周作の娘「さゆり」役に選ばれる(本名と同じ役名だったのは偶然である)。1959年には、『朝を呼ぶ口笛』で映画に初出演。芸能活動が軌道に乗ると、勉強の時間を確保するのが難しくなるが、彼女の強い希望により都立駒場高校に進学した。普通の高校生活を望んでいた吉永だったが、学費は自分で稼いでほしいという母親の意向もあり、日活と専属契約を結んで芸能活動を継続することになる。
しかし、芸能活動と学業の両立は難しく、進級が困難となったため、1961年に精華学園高校に転入せざるを得なかった。同校は芸能人が数多く通う高校として知られていた。
吉永の女優像を決定づけた
映画『キューポラのある街』
この頃、彼女は自身のキャリアにとって重要な映画に出演している。『キューポラのある街』(1962年)である。
吉永が演じたのは中学3年の主人公・ジュン。鋳物工場の近くの長屋に家族5人で住んでいる。彼女は父親の失業による貧困が理由で高校進学をあきらめるが、トランジスタ組み立て工場で働きながら、定時制に通うことに積極的な意義を見出していく。自分で人生を切り開くためには、自分で稼ぐしかない。その決断に至る中学3年生の緊張・葛藤がまぶしい。







