それだけに、吉永の役柄は、戦後民主主義にあきたりない当時の人びとの目には、薄っぺらくてつまらないものに映ったのかもしれない。しかし、吉永が体現した戦後民主主義は、「2周目」であるがゆえにわかりやすく、それが喪われつつある現代だったがゆえに多くの観客から支持されたと理解することもできるだろう。
戦後の「理想」を演じ続けた
吉永小百合という存在
吉永小百合は、高齢者を演じても高齢者にはみえない。誰を演じても、すべて吉永小百合である(それは彼女が「スター」だということなのだが)。彼女が演じてきた「理想的女性像」もまた、リアリティがあるようにはみえない。
「みえない」を強調したが、そもそも理想はみえない、さわれない。理想を人格化したり形象化したりすること自体が、無理な話である。
『彼女たちの「戦後」』(山本昭宏、岩波書店)
だとしたら、高度成長期以降の日本社会が吉永小百合を理想視してきたことも、無理な話だったと知るべきだろう。吉永小百合の映画が「つまらない」のだとすれば、そして吉永小百合が演じる役柄にリアリティを感じられないのだとすれば、それは私たちが理想をつまらなくしたからであり、私たちが自身の手で理想を「空想」に変えてしまったからではないのか(ここでは、脚本・演出・演技の問題は横に措く)。
しかしながら、重要だと思われるのは、吉永小百合が2025年現在のいまも「現役」だという点である。無理のある「理想」を引き受け続けてきた彼女を冷笑し、「お疲れ様でした」と片付けるだけでは、彼女の思想を受け止め損なってしまう。彼女がいまも「現役」であるという事実の背景には、高齢のファン層がいるため、一定の興行収入を見込めるという事情もあるのだろう。
だが、それだけではなく、「現役」の彼女は、いまの私たちが「戦後」から何を継承しなかったのかを問いかける存在だとも理解できる。その意味で、私たちは吉永小百合から見つめ返されているのだ。







