織田信長左・明智光秀像(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)、右・豊臣秀吉像(高台寺蔵、Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

本能寺の変で信長が明智光秀に討ち取られた直後、秀吉は備中高松城から山崎まで驚異的な速さで引き返し、光秀を討った。世に言う「中国大返し」だが、「1日80kmの行軍」は実現可能だったのか。古城探訪家の今泉慎一さんは「1日80kmの行軍」は、対立を深めていたある人物に功績をアピールする狙いがあったのではないかという――。(古城探訪家 今泉慎一/執筆協力 西畑紗南)

突然届いた信長の訃報
その時秀吉は……

「織田信長が、死んだ」。

 その知らせは、各地で戦っていた織田家の武将たちにも、次々と伝わっていきました。天正10(1582)年6月2日、本能寺の変において、明智光秀が攻め入り、織田信長は自害しました。

 家臣たち各々が混乱しながらも行動を起こそうとする中、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は備中高松城(現在の岡山県)で戦いの最中でした。信長から中国地方の平定を求められていたのです。

 しかし、主君である信長に大事があった今、秀吉が行うことはひとつしかありません。「一刻も早く備中高松城での戦いを終わらせ、、明智光秀を討つため畿内へ引き返す」。信長を悼み悲しむだけではなく、主君の仇である明智光秀を討伐すること、そして信長の後継者として名を挙げることでした。

 そのために秀吉は備中高松城から山崎まで、一刻も早く向かう必要がありました。その距離、およそ200km。とんでもなく長い道のりです。

備中高松城攻めの秀吉本陣・石井山陣より。中央の森が備中高松城。周辺の平地が全て水没した備中高松城攻めの秀吉本陣・石井山陣より。中央の森が備中高松城。周辺の平地が全て水没した 撮影:今泉慎一(風来堂)

 主君の訃報という一大事。ましてや、自身は毛利軍相手に城攻めという大仕事の真っ最中。早急な判断と行動が求められる緊急事態。秀吉は、どのような日程で、どのように山崎まで進軍したのでしょうか。誇張はなかったのでしょうか。