ですが、甲冑は脱いで身軽な状態で走っていた、という説もあります。戦国時代には「小荷駄隊」という荷物を運ぶ専門部隊がいました。荷物は彼らが運び、他の兵士たちは身軽になっていた可能性はあります。

 戦国時代において、戦に参加した足軽が甲冑を付けずに走ったり水中に入ったり、身軽な状態で戦に参加することも行われていたようです。「長篠合戦図屏風」などの合戦絵図にもその様子が描かれており、脇差一本の身軽な服装な男が、刀や弓が飛び交い、馬が闊歩する戦場の中を軽快に走り回っているのです。

 もし追撃がないことが確実なら、極力身軽な状態になり全速力で進むことができます。現代人の一般的な早歩きは時速6kmといわれています。単純計算では13時間あれば80km弱になります。

 姫路に到着した翌日は丸1日、その場に留まっています。強行軍の疲れを癒す休養日と考えると合点がゆきます。後年、賤ヶ岳の戦いでの「美濃大返し」では、秀吉は道中の村々に褒美を約束し、食料や灯りを用意させました。この時も同じことを行なっていた可能性もありうるのではないでしょうか。

姫路城。1601(慶長6)年に大きく改修されたため秀吉時代とはその姿は異なる姫路城。1601(慶長6)年に大きく改修されたため秀吉時代とはその姿は異なる 撮影:今泉慎一(風来堂)

 船坂峠を挟んで西の備前は、宇喜多家の支配地域。当時は織田軍の味方だったとはいえ、安心はできません。一方、峠から東の播磨は秀吉の支配地域です。その拠点、姫路城まで、多少の無理をしてでもなるべく早く辿り着く意味は大いにあったでしょう。