「中国“大”返し」は
秀吉による誇張表現?

 6日出発・7日姫路到着という通説の重要な根拠の一つが、秀吉が織田信孝に宛てた書状です。

 同文書には、秀吉がどのように中国大返しを敢行したのか、その経緯が記されています。しかし、この中には偉業のように自身の行動をやや誇張した様に見える箇所がいくつか存在します。

 というのも、信孝宛の書状は、秀吉が信孝との対立が深まりつつあった時期に、自らの忠節と功績を示し、心象を改善して織田家との関係性を改めようと書いたものだからです。要するに「ワシはこんなに信長様のためを思って行軍したのじゃ」と、熱意を伝えたかったのでしょう。

 実は、秀吉が備中高松を出発したのはもっと早く、毛利家との和議が成立した6月4日だったとの説もあります。備中高松から姫路までは約100kmですので、1日33km。時速6kmなら1日5時間半歩けばクリアできてしまうのです。

 最後に、「中国“大”返し」というネーミングについて、ある研究者の説に触れておきましょう。

 Liu Paul Kang Hao氏によると、「中国大返し」という呼び名は、実は20世紀に入ってから登場。その後、司馬遼太郎が『街道をゆく』等の著書で「中国大返し」の呼び名を使用したことで、現代の人々に「中国大返し」の呼び名を強く印象づけたのでしょう。

 では、それ以前はどう呼ばれていたのか? というと、「中国引返し」が一般的だったのではないかというのが氏の見解です。確かに、幕末の浮世絵師・月岡芳年の「太平記尼ヶ崎合戦中国引返しの図」という絵画もあります。

 「大」という言葉は後世に生まれたものだったとしても、秀吉による“演出”は、やはり当時からあったのではないでしょうか。そしてそれは、不可能を成し遂げ、主君の仇を討った、織田信長の正当な後継者という人物像を、自身に印象付けるには十分なエピソードであったといえます。

【参考文献】
Liu Paul Kang Hao「ごく普通だった「中国大返し」: 秀吉の行軍と他の行軍と比較」(上智大学上智大学Sapientia会『紀尾井論叢』9巻、p15~29、2024-01-31)

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