秀吉のその後を決定づけた
激動の10日間の実態とは

 秀吉のこの時の行軍は、俗に「中国大返し」と呼ばれています。6月3日に一報を聞いてから、6月13日には、光秀の待つ山崎に到着していたといいます。

 とにかく急いで急いで、寝る間も惜しんで山崎に向かった……というのが、一般的な「中国大返し」のイメージだと思います。では、具体的には、信長の訃報を受けてから、どの様な日程で山崎に向かったのでしょうか。日程には諸説ありますが、「惟任退治記」や秀吉書状などをもとに一般に知られている行程を挙げます。

【1582年6月〈中国大返し〉の行程】

◆6月3日
本能寺の変の知らせが秀吉に届く

◆6月4日
清水宗治が切腹し、備中高松城の戦いが事実上終結。秀吉、毛利方と和議

◆6月6日
中国大返し開始。備中高松を立ち、沼城に到着

◆6月7日
秀吉、姫路到達

◆6月9日
秀吉、姫路出発

◆6月10日
秀吉、兵庫に到達

◆6月11日
秀吉、尼崎に到着

◆6月12日
富田に到着

◆6月13日
山崎に到着、明智光秀軍を破る
水攻めの際に築かれた築堤の一部備中高松城の水攻めの際に築かれた築堤の一部 撮影:今泉慎一(風来堂)

 信長の訃報を受け、秀吉は取り掛かっていた備中高松城攻めを毛利方との和平交渉という形で終わらせ、すぐに帰還する体制に。かなり迅速な対応を行っていた様です。一方で、毛利に背後をつかれないよう、警戒していた様子も伺えます。和議のあと、一目散に東上したわけではなく、しばらく現地にとどまっています。