害虫と益虫を私たちは
人間の都合で身勝手に分けている

 私事で恐縮ですが、少しばかり思い出話を付記しておきます。私は少年時に九官鳥の九ちゃんと暮らしていましたが、彼は単に「コンニチハ」と話すというだけでなく、私の感情を読み、うれしいときは一緒に「ウフフ」や「オホホ」と笑いましたし、怒ったときは兄弟喧嘩のように、猛烈な勢いで私を追いかけ回したものです。動物とも、兄弟のような正面からの感情のやり取りがありました。

 猫や犬どころか鳥や魚までペットとしてお迎えされ、名前をもらい、家族になる時代です。みなさんも動物との個人的な挨拶の体験があるのではないでしょうか。

 蝉取りをしたり、蝶々を追いかけたりと、少年少女のときに虫と遊ぶことは、いのちを学ぶことにつながります。

 虫にはたいへん申し訳ないですが、子どもにも残酷な心がありますから、羽をむしってしまったり、足をもいでしまうこともあります。故意でなくとも、ちいさな虫さんの体を潰してしまうこともあります。家のお花や庭木についた虫を駆除することもあります。生きるために避けて通れない殺生の代名詞として虫は私たちの傍にいます。

 虫は私たちがいのちを学ぶために、いつも身を犠牲にしてくれている、とまで言っても言い過ぎではない気が私はします。小さな虫を手のひらにのせて、私たちは「いのちの手ざわり」を実感するのです。

 それにも拘らず、身勝手で恩知らずな私たちは、咄嗟に虫を打ち殺したり、「見た目が気持ち悪い」と排除して、差別してしまいます。害虫と益虫を私たちは人間の都合で身勝手に分けています。

 無論、虫との完全な共生は困難ですし、生きるために虫さんを殺さないといけないときもあります。だからこそ、殺生して、先ほどまで生々しく手のひらにあった「いのちの手ざわり」が消えたとき、自ずと「ごめんよ」と手を合わせたくなる気持ちを大切にしたいものです。そして虫さんと顔を合わせたときには、同じ大地に生きるものとして、「こんにちは、いつもすみません」と挨拶をしたいものです。

 虫の視点に立ち、相手の顔をみて言葉を口にする伝統的な日本人にとって、植物と挨拶することに違和感はありません。

 春に目覚めたくまさんも、野原でたんぽぽと挨拶していましたし、夏の朝に朝顔に「おはよう」と挨拶するのは気持ちがいいものです。秋には真っ赤に染まった落葉を「さよなら」と見送りますし、冬枯れて、白雪に覆われた大地に冬野菜が健気に生きているのを目にすると、「がんばれ」と励ましたくなります。

 数学者の岡潔(1901-78)も、「冬枯れの畑の大根にいのちの輝き」(『情緒と日本人』PHP研究所、2008年)がみえた感動を繰り返し記しています。

 それはそれとして、なぜ私たちは植物と挨拶したくなるのでしょうか。季節の巡りに呼応して、植物が芽を出しては、枯れてゆくのを見届けることは、生まれては死にゆく大いなるいのちに立ち会うことだからではないでしょうか。

 季節ごとに、それどころか近くの草原で、その時々に生えては枯れてゆく名も知れぬ雑草たちをみることは、人間以上に儚いいのちの流れにまみえることでもあります。それと比べて、人間よりもずっと長命な樹木と向き合うことは、悠久のいのちの流れを教わることでもあります。