奥田碩・トヨタ自動車元社長 Photo:Pool BASSIGNAC/BENAINOUS/gettyimages
トヨタ自動車元社長の奥田碩が亡くなった。1970年代はフィリピンに“左遷”されていた奥田が、90年代に異例のサラリーマン社長として抜擢され、2000年代には財界トップまで上り詰めたワケとは。奥田の手腕と信念、人柄を振り返る(文中敬称略)。(佃モビリティ総研代表 佃 義夫)
本田宗一郎、鈴木修と並ぶ
「反骨の経営者」奥田碩とは
「トヨタ変革の旗手」と言われ、トヨタ自動車社長、会長を務めた奥田碩が老衰のため8月8日に死去した。93歳だった。
筆者が1970年代から自動車業界を取材してきた中で、「反骨の経営者」トップ3を挙げるなら、ホンダ創業者の本田宗一郎、スズキ中興の祖である鈴木修、そして奥田だ。
奥田の凄みをものすごく端的にまとめると、3つあると思う。
ひとつは、創業家経営が続いていたトヨタで28年ぶりのサラリーマン社長となり、「三河の田舎企業」を変えたこと。続いて、世界販売台数6年連続1位という今日の「トヨタ独り勝ち」の土台をつくったこと。
そして最後が、財界トップとして小泉純一郎政権と連動し、日本経済をも変えようとしたことだ。
奥田と筆者は、奥田が海外赴任から帰ってトヨタ自動車販売の豪亜担当部長を務めていたときに取材してからの付き合いだ。奥田はフィリピン・マニラへ6年半もの長期赴任、いわば“左遷”のようだったと筆者にぼやいたことがある。
そんな状況から、製販統合後のトヨタにおいて、自販出身で副社長にまで上り詰めた時点で異色のキャリアだった。
本人の人柄を簡単に述べると、180センチの長身、体格はがっちりだが人相は柔和、しかしズケズケと歯に衣着せぬ語り口で、不思議な魅力のある人だった。筆者以外にも、妙にその人間性に惹かれるという人は多かった。
奥田が副社長時代、「もう、俺はここで終わりだよ」と言い切っていたのは今でも覚えている。しかし1995年2月、当時の豊田達郎社長が病に伏せてしまった。そこで急遽、白羽の矢が立ったのが奥田である。このとき本人は「運というものは、わからない」と語っていた。当時62歳。
ときはバブル崩壊後、国内需要はしぼみ、円高で輸出に大打撃、トヨタの業績は低迷していた。奥田は95年8月に社長に緊急登板すると、その手腕を次々に発揮していった。
当時はまだ「三河の田舎企業」とか「三河モンロー主義」という言葉がトヨタに付きまとっていた。創業家の求心力で固い結束を誇ってきた反面、「石橋を叩いても渡らない」「乾いたぞうきんを絞る」(これ以上絞っても水が出ないほど限界まで無駄を削る)といった枕詞でトヨタは形容されていた。要するに、慎重で面白みのない会社と揶揄(やゆ)されていた。
そんな、三河のトヨタを「世界のトヨタ」として飛躍させたのが、奥田である。いかにしてグローバル企業、海外で戦える一流企業に変革したのか。社長就任会見で抱負を問われた奥田の発言は明快だった。







