『キッシンジャー秘録』で理解しきれない箇所があれば、私は浅井さん宛てに手紙を書いた。浅井さんは当時、公使としてロンドンの王立国際問題研究所に出向していた。南京から投函したエアメールは数日かけてロンドンに届き、戻ってくる返信には、私の問いへの丁寧な解説や感想が万年筆で優しく記されていた。

 こうした往復書簡を重ねる中で、私は「戦略」という言葉の重さを少しずつ理解していった。あの経験こそが、私の外交観の骨格になったのだと思う。

 日本はこれまで、大喪の礼、即位の礼、G7サミット、アフリカ開発会議など、大きな国際会議や外交儀式を滞りなく実施してきており、いわゆるロジ(編集部注/会議運営や日程調整などの実務)の能力の高さは折り紙付きである。

 一方、国際会議での成果文書の起草・取りまとめなど、戦略がものをいう分野では、英米を中心とする国々が歴史的に主導してきた。ことほど左様に、日本外交は「戦術の名人、戦略の欠如」とも評されてきた。日々の個別案件の処理には長けているが、「10年後の日本の姿」を描く議論は後回しにされがちだからである。

 だからこそ日本外交を論じるには、戦略を「概念」として定義するだけでなく、それを構想し運用するための思考の作法――戦略的思考まで押さえる必要がある。

年末年始を潰して書いた
「対中戦略」は何を映したのか

 2008年秋、私が中国課長に就任してまもない頃である。当時外務審議官だった佐々江賢一郎氏(のちの外務次官)から「垂くん、対中戦略を書けよ、いまこれが強く求められているから」と声をかけられた。そこで私は年末年始を使って戦略ペーパーを作成し、年初の大臣勉強会に提出した。

 大臣は資料を数分熱心に読み、「わかった」と言った後、資料を傍に置くや「それで東シナ海ガス田開発は今どうなっているか」と尋ねてきた。その瞬間、大局的な戦略よりも足元の個別案件に関心が集中してしまう日本の現実を私は痛感した。日本外交の構造的問題が象徴された場面であった。