試験に出るところを覚え、正解の型を身につける。気づけば「何のために学ぶのか」が見えなくなっていた――。そんな現代の受験勉強にも通じる問題を、千年以上前の中国も抱えていた。その背景にあったのが、官僚登用試験「科挙」と、中国のエリートたちが学んだ「四書五経」だ。なぜ古典を学ぶことが、出世のための試験勉強へと変わっていったのか。そして、それを立て直そうとした朱子の改革は、なぜ再び試験制度にのみ込まれたのか。本記事は、『地図で学ぶ深読み世界史』の著者、世界史講師の伊藤敏氏が、四書五経と科挙の歴史から、「学ぶとは何か」を読み解く寄稿記事である。

【大人の教養】中国のエリートが必死で覚えた「四書五経」とは? なぜ学問が「試験勉強」になったのかPhoto: Adobe Stock

「四書五経」は何を学ぶための本だったのか

 試験に出る箇所を覚え、正解の書き方を身につける。難しい問題を解く技術は上がっても、その学問が本来何を問いかけているのかは、しだいに見えなくなっていく。

 現代の受験勉強にもありそうな話だが、同じような問題が、かつての中国でも起きていた。その背景にあったのが、官僚を選ぶための試験である「科挙」である。

 中国のエリートを目指す人々が学んだものとして知られているのが「四書五経」である。四書は『大学』『中庸』『論語』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を指す。もともと儒教の重要な経典とされていたのは、四書よりも五経のほうであった。五経とは、古代中国の政治や儀礼、詩歌、歴史、思想を伝える記録の集まりである。

『易経』は、占いを通して世界の変化を読み解こうとする書物である。古代の占いは単なる運試しではなく、天や神の意思を知り、政治や戦争の判断を下すための重要な手段であった。

『書経』は、古代の王や政治家の言葉、政治上の出来事を収めた書物である。

『詩経』は中国最古の詩集とされ、祭礼の歌から民衆の生活を歌ったものまで、さまざまな詩を収めている。

『礼記』は、儀礼や社会制度、身分秩序、日常の作法などを記した書物である。『春秋』は、出来事を年代順に記録した歴史書である。

 つまり五経には、古代中国の人々が世界をどのように理解し、国を治め、社会の秩序を保とうとしたのかが記されているのである。

 ところが、これらの経典はあまりにも古い言葉で書かれていたため、後世の人には簡単に読めなかった。同じ漢字でも時代によって意味や使い方が変わり、背景となる制度や習慣も失われている。そのため、経典を読むには、一つひとつの文字や言葉の古代における意味を明らかにする必要があった。そこから発達したのが、「訓詁学」と呼ばれる学問である。古い言葉の意味を確定し、経典を正しく読み解くための研究であった。

科挙が「学問」を試験勉強に変えていった

 この訓詁学の重要性をさらに高めたのが科挙である。隋の時代に始まった科挙は、その後の王朝で官僚を選ぶ中心的な制度へと発展した。家柄だけではなく、試験によって能力を測り、官僚を採用しようとしたのである。

 科挙で出世を目指す人々にとって、儒教の経典は単なる教養ではなかった。試験に合格し、官僚として生きていくために、どうしても学ぶ必要があった。経典の言葉を正確に理解して引用し、問われたテーマについて文章を書く能力が、国家を担う人材にふさわしいかどうかを判断する基準になったのである。

 科挙は、血筋にかかわらず、学問によって社会的な地位を得られる可能性を広げた。その一方で、学問を試験対策へと変えてしまう側面もあった。試験に出る解釈を覚え、正解とされる文章の型を身につける。経典の言葉には詳しくても、その教えが人間や社会にとってどのような意味を持つのかを、深く考えない人も現れた。

 現代でも、点数を取ることが目的になると、何のために学んでいるのかが見えなくなる。中国でも、科挙が広がるなかで同じような問題が生まれていたのである。

朱子はなぜ「四書」を学びの中心に置いたのか

 そうした儒学のあり方を大きく組み替えた人物の一人が、南宋の儒学者である朱熹、一般に朱子と呼ばれる人物である。

 朱子は、膨大で難解な五経に入る前に、儒教の基本的な考え方を体系的に学ぶ必要があると考えた。そこで重視したのが、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書である。『大学』と『中庸』は、もともと『礼記』に含まれていた文章である。朱子はそれらを独立した書物として扱い、孔子や弟子たちの言葉を伝える『論語』、孟子の議論を収めた『孟子』と合わせて、儒学を学ぶための基本的な経典に位置づけた。

 朱子が四書そのものを書いたわけではない。しかし、この四冊を一つの学習体系として重視し、注釈を加えたことで、「四書」という枠組みが広く定着したのである。四書は五経に比べ、人間はどのように生きるべきか、社会をどのように治めるべきかという問題をつかみやすい書物である。

『大学』は、自己を修めることと家や国家を治めることのつながりを説く。『中庸』は、極端に偏らず、人間や社会の調和を保つことを考える。『論語』には、孔子と弟子たちの対話を通して、学問や政治、人間関係についての考え方が示されている。『孟子』では、人間の本性や理想の政治をめぐる議論が展開される。

 朱子は、これらの書物を読むことで、経典の文字を覚えるだけではなく、儒教が目指す人間像や社会秩序を理解できると考えた。

「試験勉強」を変えるはずの四書が、また試験対策になった

 ところが、ここにも皮肉がある。四書を中心に儒学を学び直そうとした朱子の体系も、後の時代には科挙の基準として採用された。朱子の注釈が試験における標準的な解釈とされ、受験生たちはその内容を学ばなければならなくなったのである。

 試験対策に偏った学問を立て直すために整えられた四書が、やがて新たな試験勉強の中心になったのである。この流れを見ると、四書五経は単なる古典の書名ではないことがわかる。五経を読み解くために訓詁学が発達し、科挙によって経典の学習が出世と結びつき、その弊害を乗り越えるために朱子が四書を体系化する。そして、その四書もまた科挙の基準として定着していった。

 そこには、学問と試験制度をめぐる長い歴史がある。科挙は、広大な中国を統治する優秀な官僚を選ぶための仕組みであった。古典を読み、文章を書き、政治や社会について論じる力を試すという点では、非常に高度な人材選抜制度だったといえる。

 しかし、どれほど優れた試験制度でも、合格すること自体が目的になれば、学問は型にはまりやすくなる。正解を覚えることと、自分の頭で考えることは、必ずしも同じではない。中国のエリートたちは、四書五経を通して、政治、倫理、歴史、社会秩序について学んだ。

 同時に、そこには、試験のための学問が本来の思想を見失っていくという問題もあった。四書五経と科挙の歴史が現代に伝えているのは、古典の知識だけではない。人材をどのように選ぶのか、試験で何を測るのか、そもそも学ぶとはどういうことなのか。私たちが今も向き合っている問題を、千年以上前の中国もまた抱えていたのである。