二人は信長に従い、伊勢以外へも度々遠征します。信雄は第一次天正伊賀の乱で失態をおかした2年後、信長が伊賀攻めを行う際に総大将として出陣し、伊賀を平定しました。信孝も各地を転戦し、本能寺の変直前の四国攻めでは、大軍の総大将を任されるまでになっています。

清須会議後の信雄と信孝は
ともに波乱万丈の人生

 清須会議後、信雄と信孝の運命は大きく分かれてしまいます。

 信雄は秀吉に、信孝は柴田勝家に接近したのです。信孝は当主となった三法師を自身の岐阜城に留め置き、手元に置いて後見役のようにふるまい始めます。

 それをよしとしなかった秀吉は、岐阜城に攻め込み三法師を奪還。信孝はいったんは秀吉に降伏するものの、翌年再び挙兵します。

 しかし、手を組んでいた柴田勝家が賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れ、援軍が見込めなくなると岐阜城を明け渡しました。尾張へ連れていかれる道中、信孝は大御堂寺(おおみどうじ)で自刃させられ、最期を迎えてしまいます。

岐阜城天守からの城下の眺望岐阜城天守からの城下の眺望。濃尾平野を一望できる 撮影:今泉慎一(風来堂)

 一方信雄は、秀吉と手を組みます。信孝と勝家が三法師を手中において織田家での影響力を強める一方、秀吉は信雄と結びつき、信雄を織田家の代表に担ぎ出して対抗しました。

 賤ヶ岳の戦いにも秀吉側で参戦した信雄でしたが、やがて秀吉と決裂。そこで徳川家康と手を組んで小牧・長久手の戦いに臨みました。しかし戦況が不利になると、信雄は秀吉と単独で講和して軍門に下ります。これにより秀吉は織田家内部での主導権をさらに強め、天下統一への道を大きく前進させました。

 1590(天正18)年の小田原征伐後、秀吉から徳川家康の旧領への転封を命じられますが、信雄がこれを拒否したため改易され、下野国(しもつけのくに)の烏山へ流されてしまいます。