伊賀国を領国にしようと、信長に無断で出兵したものでした。結果、伊賀を落とすことはできず、信雄の軍は敗れます。この失態に信長は激怒し、書状で「親子の縁を断つ」とまで述べたといわれています。
また、本能寺の変直後の行動も、評価が低い一因かもしれません。信雄は、光秀の安土城をうかがう動きに応じて出兵します。鈴鹿峠を越えて近江国の土山までは到達するのですが、そこから先に進むことはしませんでした。
信孝は信長の信頼も厚く
評判のよい武将だった?
一方、信孝は聡明な人物とされ、柴田勝家もそれを認めていたといわれます。また、前出のルイス・フロイスからは「思慮深く礼儀正しい」「人望がある」と評価されていました。ただし、信孝はキリスト教に理解を示していたことから、フロイスも好意的に書いていただけだった可能性もあります。
織田信孝像 歌川国芳「太平記英勇伝」(1849年) 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
山崎の戦いに勝ったと言っても
実権は秀吉が握っていた
信孝が総大将として四国攻めに向かっている最中、本能寺の変が起きました。信長の死が伝わると、兵の多くが逃げ出してしまいます。信孝は明智光秀討伐のために大坂へ引き返し、羽柴秀吉と合流。信孝を総大将として、光秀との山崎の戦いに臨みました。
しかし、実際の作戦指揮で主導権を握っていたのは秀吉でした。ゆえに、信孝は総大将という立場で山崎の戦いに勝利していながらも、三法師の後見役になるには至らなかったのでしょう。
信雄と信孝は、織田家の次男・三男と位置付けられていますが、実は信孝の方が先に生まれていたのに母の身分が低かったため、信雄が次男になったという説もあります。いずれにせよ、織田家の嫡男は信忠です。







