明治まで続く藩主としての
織田家を残したのは……

 これで万事休す、かと思いきや。秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは様子見を貫き、大坂の陣で豊臣を見限って徳川方につきました。結果、信雄は初代・宇陀松山藩主となるなど、徳川政権下でも生き延びます。

宇陀松山城跡食違い虎口(くいちがいこぐち)も構える宇陀松山城。信雄の藩主時代に廃城となった 撮影:今泉慎一(風来堂)

 以上のように同じ信長の息子として生を受けながら、信雄と信孝はまったく異なる運命をたどりました。

 人望も戦での実績もあり、父の弔い合戦の(名目上とはいえ)総大将を務めた信孝。しかし、後ろ盾を失うとあっけなく自害させられることになってしまいました。

 一方、武将としての評価はイマイチだった信雄が、結局は73歳まで生き、「織田」の名を大名家として残します。その子孫からは、四男・信良の血統が出羽天童藩、五男・高長の系統が後に丹波柏原(たんばかいばら)藩の藩主家となり、いずれも明治まで続きました。

 信孝の人生を振り返ると、清須会議以降にことごとく判断ミスをしています。トータルとしての実績はいくらあっても、ここぞという時で間違えると、たちまち転落してしまう。生き馬の目を抜く戦国時代。信雄と信孝の対照的な後半生には、それが如実に現れたといえるのかもしれません。

総見院の境内にある信長公一族の墓碑清洲城から徒歩15分ほどの場所にある総見院(そうけんいん)は、父・信長を弔うために信雄が建立。境内には信長公一族の墓碑もある 撮影:今泉慎一(風来堂)