左・柴田勝家像:作者不詳、個人蔵/Wikimedia Commons(パブリックドメイン、一部トリミング) 右・豊臣秀吉像(1598年頃):高台寺蔵/Wikimedia Commons(パブリックドメイン、一部トリミング)
織田信長が本能寺の変で倒れ、後継体制をめぐって重臣たちが動き始めた。山崎の戦いで明智光秀を破った羽柴秀吉は、清須会議や信長の葬儀で存在感を強めていく。その過程で度々見られる、柴田勝家ら格上の重臣を追いぬいた「あざとすぎる手」の数々とは――。(古城探訪家 今泉慎一/執筆協力 加藤桐子)
山崎の戦いの総大将は
秀吉ではなく信孝だった理由
天下統一を目前にしていた織田信長は1582(天正10)年6月2日、家臣の明智光秀の謀反により、滞在していた京都の本能寺で自刃して果てます。
信長を攻め滅ぼした明智光秀ですが、11日後の6月13日、山崎の戦いで秀吉に敗北。その後、落武者狩りに遭い死亡。俗に「三日天下」と言われますが、本能寺の変から山崎の戦いまでは、わずか11日でした。
天王山に設置された山崎の戦いを描いた絵図 撮影:今泉慎一(風来堂)
主君を殺した逆賊を討ったわけですから、秀吉が評価を得るのももっともです。しかも、200kmも離れた備中高松から駆けつけたわけです。
さらに秀吉はこの山崎の戦いで、信長の三男・信孝を名目上の総大将に据えています。弔い合戦なので、信長の血を引く者を担ぐことで、より「正規軍」として印象づけたわけです。
謀反者を征伐した後は、織田家の新たな体制づくりです。本能寺の変では、信長だけでなく嫡男の信忠までが討たれてしまいました。そんな中、織田家の行く末を決めるために開催されたのが清須会議でした。







