最初は「反信長派」だった勝家

 信秀の死後、織田家では家督をめぐって信長と信勝の兄弟が対立します。

 勝家は、信勝の家老として、信勝を織田家の当主にしようと考え、弘治2年(1556)の稲生の戦いで、信長と戦いました。しかし信勝側が敗北すると、勝家らは黒い法衣である「墨衣」を身につけ、清須城へ赴いて信長に謝罪しました。

織田信長の弟、信勝(演:中沢元紀)(C)NHK織田信長の弟、信勝(演:中沢元紀)。柴田勝家は信勝側についていた (C)NHK

 このとき勝家は、信長への恭順を本気で決意したとされます。一方、信勝は、その後も謀反を企てたため、勝家が信長に密告し、最終的に信勝は、信長によって粛清されてしまいます。

「鬼柴田」は知恵も働く武将だった

 勝家には、単純な猪突猛進、脳筋タイプの猛将ではないという逸話も残されています。

 美濃攻めのある戦いでは、池田恒興と佐々成政が敵将を討ち取ったものの、互いに手柄を譲り合って、首を取ろうとしませんでした。

 そこで勝家が、「敵将の首を取らなければ味方の士気に関わる」と判断して首を切り、後に信長へ事情を正直に説明したところ、恒興と成政だけでなく、勝家も褒美を受けたというのです。

 さらに有名なエピソードに、「瓶割り柴田」の逸話もあります。

 元亀元年(1570)、勝家が守る長光寺城を六角氏が攻め、水の補給路を断ちました。水源のない長光寺城内には、三つの大きな甕に入った水しか残されていませんでした。

 そこで勝家は、兵たちの前でその甕をすべて叩き割り、「もう水はない、生き延びたければ敵を倒せ」と兵を奮い立たせ、その勢いで六角軍を撃退したといいます。

 これらは、軍記物に記された話で、どこまで事実かはわかりません。しかし、勝家の豪快さと機転を象徴するエピソードとして、興味深いものではあるでしょう。