楊斎延一「佐久間盛政秀吉ヲ襲フ」部分/Wikimedia Commons(Public Domain)
1582年、本能寺の変で織田信長が倒れると、後継をめぐって家臣団の対立が深まった。翌年、織田家の筆頭格だった柴田勝家と、山崎の戦いで明智光秀を破って台頭した羽柴秀吉が賤ヶ岳で激突する。兵力、地理、家臣の動き、そして戦場で重なった偶然――。ともに戦上手として知られた勝家と秀吉。なかでも勝家は、信長のもとで数々の戦場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の武将だ。では、なぜ勝家は秀吉に敗れたのか。決戦までの経緯と勝敗を分けた局面をたどる。(古城探訪家 今泉慎一、執筆協力/青栁智規)
人望も厚かった勝家が
なぜ秀吉に敗れたのか?
信長の跡目を決める清須会議では、信長の嫡孫・三法師(さんぼうし)をかついだ秀吉の発言権が高まり、逆に柴田勝家の影響力は低下します。勝家は秀吉の台頭に危機感を募らせる信長の三男・信孝や滝川一益とともに反秀吉派を形成。織田家の重鎮は二分されました。
この対立が、1583(天正11)年4月に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにつながります。この戦いで勝家は激戦の末、秀吉に敗北します。織田家の重臣筆頭格で、人望も厚かったにもかかわらず、勝家はなぜ秀吉に敗れたのでしょうか。
清須会議から賤ヶ岳周辺で決戦を迎えるまでは、約10カ月。その間、勝家も秀吉も、決戦を見据えて自らの体制を優位にしようと盛んに動いていました。
『絵本太閤記』より清洲会議の一場面(日本城郭資料館所蔵)/Wikimedia Commons(Public Domain)
信長の次男・信雄(のぶかつ)を総大将に祭り上げた秀吉は、勝家の甥・勝豊の領地だった長浜城と、信孝の居城である岐阜城を瞬く間に奪取します。
破竹の勢いで勢力を広げる秀吉に対し、勝家も指をくわえて見ていたわけではありません。土佐の長宗我部元親を味方につけようと画策するなど、秀吉にプレッシャーをかけます。
柴田勝家像:作者不詳、個人蔵/Wikimedia Commons(パブリックドメイン、一部トリミング)
それぞれが戦の準備を進めていますが、両者には決定的な差がありました。







