『ブティック』著者・池井戸潤さん『ブティック』著者の池井戸潤さん。M&A業界を題材に選んだ理由を聞きました。 Photo by Yoshihisa Wada

会社を売る――。人生で一度経験するかどうかの重大な決断の裏側で、何が起きているのか。新刊『ブティック』で池井戸潤さんが描いたのは、知られざるM&A業界の世界だった。会社を手放せない経営者、土壇場でひっくり返る交渉、そして「両手仲介」に潜む利益相反。池井戸さんが「これがエンターテインメントにならないわけがない」と語る、M&Aの人間ドラマと業界の知られざる実態に迫った。(ダイヤモンド社メディア編集局論説委員 浅島亮子)

これがエンタメにならないわけがない
「M&Aブティック」の会議で見た人間ドラマ

――『ブティック』というタイトルから、池井戸潤さんがアパレルやファッションの話を書いたのかな、と勘違いした読者も多かったようです。実際には、M&A(企業の合併、買収)業界を舞台にした小説です。一般の人にはあまり馴染みのないM&Aを、小説のテーマに選んだのはなぜですか。

池井戸 僕は、アドバンストアイというM&Aブティック(M&Aのアドバイザリー専門会社)の社外取締役をやっています。その会社の営業会議に出席していると、会社の売り買いを通じて、実にドラマチックなことが起きるのです。

 会社を売りたいと相談に来ているのに、いざ決断の段階になると決められない経営者がいる。クロージング(取引完了)目前まで進んだと思ったら、突然、話がひっくり返ることだってある。しかも、一つ一つの案件の裏には、関わる人たちそれぞれの人生がかかっているわけです。

 M&Aというのは、まさに人間ドラマなんです。これがエンターテインメントにならないわけがないだろうと。以前から「どこかで世に出したい」と構想を温めていました。

――『ブティック』にも、会社を売りたいと言いながら、最後の決断がなかなかできない経営者が登場します。

池井戸 実際に、そういうことはあります。会社を売らなければならない事情がありながらも、「もう少し自分でやっていたい」という気持ちもある。何十年も手塩をかけて育ててきた会社ですから、合理性だけでは決められないものです。

――作中には「M&Aは人の心を映す鏡だ」という言葉が出てきます。M&Aというと企業価値や買収価格など「数字」の世界を想像しますが、実際は違うのでしょうか。

池井戸 実際のM&Aの現場を見ていると、単に数字だけで動いているわけではないことがよく分かります。

 高く売れればいい、安く買えればいいという単純な話ではありません。売り手・買い手双方の考え方や企業カルチャー、経営者や従業員、取引先、株主など、さまざまな人の思惑によって、金額も成否も変わってきます。そこには、数字では割り切れない人間の心情や機微があります。

 それに、M&Aは売り手の経営者にとってはゴールでも、そこで働く従業員や買い手にとってはスタートです。

 会社を売買して終わりではない。その会社がその後、本当に幸せになれるのか。新しい相手と一緒になることで成長していけるのか。そこまで見極めて、初めてM&Aの仕事は完結すると思います。

 そうした数字だけでは語れないM&Aの実態を、この小説を通じて知っていただければ嬉しいです。

「両手仲介」に潜む利益相反
知識がないまま会社を売る経営者も

――一方、『ブティック』には、M&A業界の構造問題や“闇”の部分など、厳しい現実も描かれています。

池井戸 そこは、この小説を書こうと思ったもう一つの大きな動機です。

 中小企業経営者の高齢化が進み、後継者のいない会社が増えています。これからM&Aは、経営者にとって会社をどう引き継ぐのかという選択肢として、ますます重要になっていくと思います。

 ところが、いざ会社を売ろうと思っても、経営者はどこに相談すればいいか分かりません。M&Aを何度も経験している経営者なんて、そうはいませんから、業界や実務について十分な知識があるわけでもない。

 しかも、M&A会社は玉石混淆です。

――M&Aの支援には、大きく分けて二つの形があります。一つは、売り手と買い手の双方と契約し、間に立って成約を支援する「M&A仲介会社」。いわゆる「両手仲介」です。もう一つが、FA(フィナンシャル・アドバイザー)として売り手と買い手のどちらか一方と契約し、その顧客の立場で助言や交渉をする「M&Aアドバイザリー会社(M&Aブティック)」です。

池井戸 売り手はできるだけ高く売りたい。買い手はできるだけ安く買いたい。もともと、利害が反対方向を向いているわけですよね。そこに、両手仲介の難しさがあります。

――ところが、「両手」と「片手」との違いや、利益相反の問題まで理解している経営者は多くありません。

池井戸 そうなんです。これからM&Aをやらなければならない人が、まず何をするか。おそらく銀行や税理士に相談するか、自分でネットを調べるかでしょう。ネットで検索すれば仲介会社が上位にずらりと並んで、いかにももっともらしいことが書いてある。

 でも、「M&Aをやらなければいけないけれど、どうすればいいのか」「知りたいけれど、何を読めばいいのか」と、正しい教科書がないまま“漂流”している人が、すごく多いと思います。

 もちろん仲介会社の全てが悪いわけではありません。それでも、金儲け主義の両手仲介に行ってしまうと、それなりの説明はしてくれても、M&A業界全体の構造まではなかなか教えてくれません。

――会社を売る中小企業経営者と、M&Aを日常的に扱う仲介会社とでは、大きな情報格差があります。

池井戸 M&Aを一生に一度しか経験しない経営者と、何度も会社を売り買いしている仲介会社とでは、持っている情報量が全く違います。

 しかも、売り手と買い手の双方にメインバンクがついていて、その銀行自身がM&Aアドバイザリー業務を手掛けていたり、仲介業者と組んでいたりする。ここも利益相反の温床になりやすい構図です。

 実際に大事な会社を売ったのに、手元に残ったお金が800万円で、そのうち700万円を仲介会社が持っていく――。そんな話もあるんです。

 手数料の計算もそうです。M&Aでは、取引金額などに応じて一定の料率を掛ける「レーマン方式」がよく使われます。ところが、契約をよく読むと、想定していた基準ではなく、借金を含む総資産を基準に手数料が計算されていたとか……。信じられないようなケースもあります。

 でも、そういうことが起こりうること自体を知らない人が、あまりに多い。だから、「これは今、書いておかないとまずいな」と思いました。

――『ブティック』には、M&Aをめぐる人間ドラマを描くと同時に、経営者が悪徳業者などに「食い物」にされないための知識を伝えたいという思いもあった。

池井戸 それだけではないですけどね。ただ、知識がないために、金儲け主義の業者の食い物にされてしまう。それで後悔する人を少しでも減らしたいという思いはありました。

「M&Aって何?」でも楽しめる
『ブティック』は業界の入門書

――実際、『ブティック』を読んでいくと、仲介会社とアドバイザリー会社との違いから、企業価値の算定、デューデリジェンス、クロージングまで、物語を追ううちにM&Aの仕組みが自然と理解できます。小説でありながら、M&Aの「入門書」のようにも読めます。

池井戸 そういう意味では、M&A業界を知る入り口としてはいいと思います。

 この業界は構造が分かりにくいんです。仲介会社に行けば仲介会社の立場があるし、アドバイザリー会社に行けばそちらの立場がある。それぞれが、自分たちに都合の悪いことまで全て話してくれるとは限らないでしょう。

『ブティック』では、M&A業界の構造をできるだけフェアに書いたつもりです。成功する話だけではなく、うまくいかない例も入れています。

 ですから、「M&Aってそもそも何なんだろう」という人が、この世界を知る入り口になると思います。あくまでエンターテインメントですけどね。

池井戸潤さんいけいど・じゅん/1963年岐阜県生まれ。慶應義塾大学卒。 98年『果つる底なき』で江戸川乱歩賞を受賞し作家デビュー。2010年『鉄の骨』で吉川英治文学新人賞、11年『下町ロケット』で直木賞、23年『ハヤブサ消防団』で柴田錬三郎賞を受賞。 主な作品に「半沢直樹」シリーズ(『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』『ロスジェネの逆襲』『銀翼のイカロス』『アルルカンと道化師』)、「下町ロケット」シリーズ(『下町ロケット』『ガウディ計画』『ゴースト』『ヤタガラス』)、『シャイロックの子供たち』『空飛ぶタイヤ』『民王』『七つの会議』『陸王』『ルーズヴェルト・ゲーム』『ノーサイド・ゲーム』『花咲舞が黙ってない』『アキラとあきら』『BT’63』『ハヤブサ消防団』『俺たちの箱根駅伝』がある。26年には、『ブティック』と『ハヤブサ消防団 森へつづく道』の2作の新刊が発売中。 Photo by Y.W.

――主人公の雨宮秋都(あまみや・しゅうと)は、もともとは M&Aのプロではありません。東京中央銀行に入行して3年目、ある出来事をきっかけに銀行を辞め、M&Aブティックの世界へ飛び込みます。なぜ、あえてM&Aの新人を主人公にしたのでしょうか。

池井戸 未完成じゃないとダメなんです。

 最初からM&Aのプロを主人公にしてしまうと、デューデリジェンスなどの専門知識を知っていることが前提になってしまう。そうすると、M&Aを知らない読者はついていけなくなるかもしれません。

 秋都自身が、一つ一つの案件を経験しながらM&Aの世界を知っていく。その過程を、読者も一緒にたどっていけるんです。

――読者も、秋都と一緒にM&Aの世界を“疑似体験”できる。

池井戸 そうですね。もちろんM&Aの仕組みはきちんと書いていますが、教科書を書いたわけではありませんから。

 M&Aの知識が全くなくても、秋都が経験する案件や、そこに関わる人たちの迷いや葛藤を追って行けば、物語として楽しめるように書いています。まずはエンターテインメントとして楽しんでもらうことが一番ですね。