「働くことは善」
という因習
働くことを「善」とする考え方には歴史がある。
20世紀ドイツの社会学者であり政治学者であり経済学者でもあったマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)で述べたように、宗教改革以降のヨーロッパでは、勤勉に働くことが神への奉仕であり、怠惰は罪であるという観念が広まった。
ウェーバーによれば、カルヴァン派の予定説のもとでは、自分が救済される側かどうかは神のみぞ知るところだが、世俗での成功は救済の「徴」として捉えられた。だから人々は不安を打ち消すように働いた。利潤を再投資し、禁欲的に働き続けた。
ドイツ語の「Beruf」、英語の「calling」という言葉には、「神から与えられた使命としての職業」という宗教的な含意がある。ウェーバーはこの言葉がプロテスタント圏にのみ存在することを指摘し、世俗の労働に宗教的意味を与えたのは宗教改革の産物だと論じた。そしてこの精神が資本主義の土台になったという。
ただし、ウェーバー自身が強調しているように、宗教的な基盤はやがて失われた。「ピューリタンは天職において働くことを欲した。われわれは働くことを強いられている」とウェーバーは書いている。宗教が去った後も、「働くことは良いことだ」という観念だけが残り、私たちはその残骸の中で生きている。
侍のつもりで商人をして
過労死する日本人
日本ではどうか。江戸時代中期の思想家・心学者石田梅岩は『都鄙問答』(1739)で、商人の売買による利益は武士の俸禄と同じだと説いた。当時、商人は「賤商」として蔑まれがちだった。梅岩はその偏見を否定し、商売を道徳的に正当化した。これは「勤勉=善」という話とは少し違う。商売で儲けることは卑しくない、という話だ。しかし、職業を道徳で正当化するという点で、後の労働倫理の土台を作ったとは言える。
面白いのは、現代日本のビジネスマンが「侍」の自己イメージを持ちたがることだ。「企業戦士」「武士道精神」「滅私奉公」。しかし、モノやサービスを売って利益を得るという仕事の中身で言えば、実態としては梅岩の言う「商人」そのものだ。侍のつもりで商人をやっているから、「儲け」や「報酬」を正当化できず、「奉仕」や「忠誠」で自分を納得させる。







